1時間目 「立てる」とは

敬語とは、敬意を表す方法(敬意表現)のひとつである

『敬語とは、敬意を表す方法のひとつである』、と章立てしましたが、敬意とは何でしょうか

 

敬意とは、”誰かを尊重しようとする意思”と言えるでしょう。

言ってみれば、”(あなたは、私にとって)貴重な人です”ということです。

※「あなた」や「私」は状況によって変わります

 

 

ここに、「目上の人間は誰もいない。俺様だけが大事で、周りの人間はどうでもいい」と考えている人がいたら、敬語を使う必要性を感じないかもしれません。

 

しかし、そのような”俺様”であっても、会社に所属し続けたいと思うなら「会社をクビになったら困るので、表面上だけでも上司に愛想を振りまいておこう」と、(気は進まないかもしれませんが)敬語を使うことでしょう。

敬語を使うからには、この”俺様”も、上司に対して「あなたは、私にとって貴重な人です」と伝えていることになります。

 

さて、別の”俺様”は、「良い人間関係とは、俺様の利益になる人間関係のことだ。最初にガツンと怖がらせて、誰が偉いかを思い知らせてやれば、あとは俺の言うなりに動くもんさ。」と思っているかもしれません。そのような人が使う言葉は、敬語ではなく、軽卑語(「テメエ、何シヤガル!」など)や尊大語(「オレサマガ話シカケテヤッテルンダ」など)と呼ばれます。

 

しかしそのような”俺様”にも、尊敬する人や慕う人がいるかもしれません。その人たちには「あなたは、私にとって貴重な人です」と何らかの表現方法で伝えるでしょう。もしかしたらその表現方法の一つとして、敬語を使っているかもしれませんね。

 

小さな子どもは別として、このように何らかの人間関係を持って社会生活を営む人であれば、敬語を一切使わないという人はまずいないのではないでしょうか。

 

ご近所さんと交わす、「今日はすっかり晴れましたね。」とうような何気ない言葉にも、ちゃんと丁寧語という敬語が使われています。

 

あんな人になりたいと尊敬している人や、お世話になった先生、自分に生活の糧を与えてくれる仕事上のお客さまや上司や同僚や取引先の人たち、毎日顔を合わせる家族から、この先どこかで自分を助けてくれることになるかもしれない多くの未だ知らない人たちまで、状況によって変わる様々な人間関係のなかで、私たちは実に多くの人々と共に生きています。

 

どうせ誰かと共に生きていくならば、「良い関係を築きたい、良い人間関係であり続けたい」と思うのは自然なことです。思ったら、今度はそれを伝えなければなりません。いくら強く思っても、思っているだけでは誰にも見えず、分かってもらえないからです。

 

伝えるのであれば、「私は、あなたと良い関係を築きたい、良い人間関係であり続けたいと思っています。なぜなら、あなたは貴重な人だからです。」と伝えることでしょう。

 

「あなたを軽んじるような、一方だけに利益があるような人間関係を望んでいるわけではありませんよ。お互いを尊重しあうような、良好な人間関係を望んでいるんですよ。」ということを伝えることで、相手が安心して関係を結んでくれるようにするためです。

 

お互いを尊重しあう良好な人間関係を育むために、まずは”私”から、”あなた”を尊重しますよ、という態度を示すのです。

小さい頃、誰もが「挨拶は、自分から大きな声で言いましょう」と教わったのと、同じ考え方です。

 

いったん人間関係ができた後も、どのような話題であるかに関わらず、”貴重な人だ”ということを常に表現し続けます。(良い人間関係で”あり続ける”ためです。)

 

この”誰かのことを、貴重な人だと言葉のうえで表現すること=敬意を言葉として表現すること””立てる”ということです。”立てる”ことによって、”思い”が”行為”に変わりました。

 

この”立てる”という行為に特化した言葉を”敬語”といいます。

 

たとえば、スーパーの店員であれば、お客さまを”立てる”(=敬語を使う)必要があるでしょう。その同じ店員が喫茶店へ行ったとすれば当然、そこではお客さまですから、”立てられる”(=敬語を使われる)立場に変わります。もしその喫茶店の従業員がスーパーで買い物をし、さっきその店員から”立てられ”ていたとしても、ここではお客さまとして”立てる”必要があることに何ら変わりはありません。

 

この”立てる”という言葉を『敬語の指針』では、「言葉の上で高く位置付けて述べる」と説明しています。

 

”言葉の上で”と限定しているのは、どの位置に立つか(座るか)、視線をどこに向け、手をどこに置き、どのような身だしなみでその場に臨むか、どのような話題を選ぶかなど、敬意を表すには様々な方法があるからです。これらを含めて敬意表現といいます。

 

つまり、「言葉の上で高く位置付けて述べる」と同時に、別の要素で相手を低く扱うということも(意図的かどうかは別として)可能です。

 

たとえば、就職を世話してもらった大学の恩師にお礼にいくとき、どのような敬語を使ってお礼を伝えるかということも重要ですが、大学生のときと同じ服装で行くべきかどうかということも敬意を表す重要なポイントになり得ます。

 

もっとシンプルな例を挙げれば、どれだけ正しい敬語を使っていても、ヘラヘラとした態度であれば敬意は伝わらないかもしれません。

 

逆に言えば、せっかく様々な要素で相手を高く位置付けているにもかかわらず、言葉の上で(意図せず)低く位置付けて述べてしまったとしたら、とてももったいないことです。

 

たとえば、大事な取引先を応接室に通し、名刺交換もスムーズに終え、上座に座っていただいたうえで、「それでは我が社の商品をご拝見ください」と言ってしまったら……。

(正しくは「ご覧ください」や「ご説明してもよろしいでしょうか」など)

 

このように、敬意を表すためには、敬語だけで全て事足りるというわけにはいきませんが、上座がどこかを知っておくのと同じように敬語を知っておくことも大切です。

「立てる」をイメージする

昔々の高貴な人をイメージしてみてください。

平安時代とか…奈良時代とか……。

 

それほど昔のことでなくとも、戦前、天皇陛下は神様でした。

高貴な人は、御簾の向こうにいて、お顔が見えません。

 

高貴な人は高い所に座っていて、一定の距離以上は近づくこともできません。

 

高貴な人には直接話しかけることもできず、聞かれたことに答えるのも、お付きの人に伝えて、お付きの人から高貴な人に伝えてもらいます。

 

もし御簾がなかったら……、ジロジロと見るなどもってのほか、じっと下を見ています。

 

もし高貴な人が高い所から降りてきたら……、より自分の位置を低くするよう、姿勢や位置を工夫します。

 


これが、そのまま敬語のイメージです。

「立てる」べき人に近づきすぎない。触れたり、ジロジロ見たり、余計なことを知ろうとしない。

 

 

尊敬語のもっとも基本的な形は「お~になる」(「お書きになる」など)ですが、これも「あなたが~する」ではなく、「(自然と)~になる」と主語をぼやかす表現なのです。このように主語をぼやかすことで、言葉の上で高貴な人に御簾をかけているのです。

敬語を使っても避けるべき話題

言葉の上だけでなく、どのような内容を扱うかということも配慮が必要です

ここでは目上である部長に向かって話しているとして、例を挙げてみました。

 

a)近づきすぎる

 

☓「来週歓迎会を行いますが、部長もいらっしゃりたいですか?」

→部長が歓迎会に来たいか来たくないかを知ろうとすることは、御簾をめくろうとするような行為であり、「立てる」とは相反しています。

 

 

○「来週歓迎会を行いますので、ぜひ部長にいらしていただきたいのですが……。」

 

b)上に立つ

☓「部長はファッションセンスが良いですね。」

→部長の能力を評価するということは、「わたし」のほうが部長より上に立っています。このような行為も「立てる」とは相反しています。

 

○「部長の身だしなみを参考にさせていただいております。」

 

c)引き下げる

☓「部長がコーヒーカップお壊しになったので、新しいものを買ってまいりました」

→「壊す」というネガティブなイメージのある話題を取り上げるということは相手を引き下げるような行為です。このような行為も「立てる」とは相反しています。

 

              

○(話題にしない)

→どう言うか、だけでなく、”言わない”という敬意の表しかたもあります。

敬度を考える

敬度とは、敬意の度合いということです。

一口に目上と言っても、会社の1年先輩と社長ではかなり違います。

その違いに合わせて敬意の度合いを変えなければなりません。

 

先輩には「おはようございます」と軽く会釈で構わなくても、廊下で社長とすれ違ったら、まず脇によけ、頭を下げてから挨拶を述べるでしょう。「おはようございます」の口調も先輩社員とは異なるはずです。

 

さきに、「来週歓迎会を行いますが、部長もいらっしゃりたいですか?」という言葉遣いはしてはいけないと説明しましたが、先輩との間柄が近く、例えば「先輩が苦手な人が歓迎会に参加するので、先輩はきっと歓迎会には行かないつもりだろうが、自分が幹事なので、もしいらっしゃりたいなら席順の配慮ができる」というような思惑が了解されているような関係であれば、「気の利くやつだ」と思われる可能性だってあるのです。

 

先輩に使うべき敬語を社長に使えば当然失礼に当たりますし、だからといって社長に使うような敬語を誰にでも使っていては不自然です。場合によっては、冗談を言っている、嫌味を言っていると受け取られてしまうかもしれません。

 

敬語を使おうと思うと、なるべく丁寧にしなければ、敬意を示さなければと思うあまり、敬語が過剰になりがちです。

 

「二重敬語」のように明らかな誤用でなくとも、過剰な敬語の使用は避け、適度に用いることが求められます。過剰な敬語のために文章が煩わしくなるようであれば、敬語を避ける言葉を探すのも、配慮のひとつです。

 

その場、その状況、その関係にふさわしい敬語を使うよう心がけましょう。

 

※二重敬語とは、一つの言葉を同種の敬語にする作業を2回繰り返し、誤った日本語にしてしまうこと。例えば「持つ」という言葉に対し、受身形と呼ばれる「持たれる」、もしくは付加形と呼ばれる「お持ちになる」と変化させるのは正しい尊敬語だが、一旦受身形にしたものを更に付加形にする「お持たれになる」や、逆に付加形にしたものを更に受身形にする「お持ちになられる」は誤用。最近は一旦付加形の謙譲語にした「お持ちする」を受身形の尊敬語にする「お持ちされる」という誤用が目立つが、これは謙譲語にしたものを尊敬語にしているので、「二重敬語」とも呼べない新たな誤用である。