■なぜ「~いただくことになっております」が広く使われるのか
滝浦真人先生が書かれた『日本語は親しさを伝えられるか』を発端として、「初めにお支払いいただくことになっております」という言い方について批判的に考えています。今回は、なぜこの言葉が広まり、使われるのかについて考えていきます。
■状況によって使い分ける配慮ではなく、一つだけで済むルールが求められている
前回、「初めにお支払いいただくことになっております」という言い方に代わる適切な言い回しは状況に応じて幾通りもあるというお話をしました。その中で、何故「~いただくことになっております」という言い方だけが広まるのか、その結論から言えば、状況に応じて幾通りもあることこそが困るからでしょう。話の内容や相手との関係性などいろいろな条件を考えて敬語を使い分けるのは大変なので、最もへりくだった言葉だけを使って一つだけで済まそうとした結果が、「初めにお支払いいただくことになっております」をはじめとするマニュアル敬語だと思われます。
「~してください」は命令を丁寧に言っているだけなのでお客さまに言ってはいけない。やってもらいたいことは「~していただけますか?」と依頼形を使って言いなさい。このようにコールセンターでは教えられていました。あわせてご紹介しておくと、こちら側の行動について、「~します」と言うのは失礼で、「~させていただいてもよろしいでしょうか」とお伺いを立てるようような言い方を推奨されていました。そのように指導されて働いている人は、「~してください」「~します」と言う代わりに「~していただけますか」「~させていただけますか」と言っているだけなので、お客さまから「はい」という言葉が返ってくるとしか思ってはいません。たまにお客さまから「NO」が返ってくると、途端にうろたえることになってしまいます。
このような指導の結果、「~してください=~していただけますか」「~します=~させていただいてもよろしいでしょうか」をさらに突き詰めて、「こちらの行為=”~させていただく”、相手の行為=”~していただく”」という極めてシンプルなルールが定着し、これが蔓延したのだというのが、私の肌感覚です。
※命令の「ください」とともに、恩恵を与える「差し上げる」もコールセンターでは使われませんでした。たとえば、営業時間外に折り返すようお客さまから言われても、それを受けるなら「かしこまりました。朝7時にお電話させていただきます。」とご案内します。「~して差し上げる」などとは恩着せがましい、という批判も予め避けることができ、「~してあげる」「~して差し上げる」という言葉も「~させていただく」に一本化することで効率的な敬語になる。コールセンターの運営からすれば、いいことづくめです。
この、たった一つのルールさえ覚えていれば、「お~になる」という尊敬語も、「お~する」という謙譲語も必要ありません。「~してください」と「~して差し上げる」も使い分けずに済みます。かくいう私も、敬語を勉強する前は「いただく」が「もらう」の謙譲語だとも知らず、お客さまに対して「書類を返送していただきます」「別の番号へおかけなおししていただけませんか」というような言葉づかいでご案内していました。
■諸先生方はどう見ているか
このような状況を国語学者の荻野貞樹先生は憂えていらしたのでしょう。「いただく」を使うのをやめるよう呼び掛けていらっしゃいましたが、「いただく」氾濫の流れが止まることはありませんでした。
蒲谷宏先生、川口義一先生、坂本惠先生は、1998年に出版されたその著書『敬語表現』の中で、下記のように書かれています。
ほとんどの「行動展開表現」は、「あたかも依頼表現」と「あたかも許可求め表現」
に収斂することになります。(『敬語表現」p.130)
「あたかも依頼表現」が上の例でいうと「~していただけますか」に該当し、「あたかも許可求め表現」が「~させていただけますか」に該当します。
実際に、私が経験したすべてのコールセンターではこの二つに収れんされたことから察すると、多くのコールセンターでもこの二つに収れんされた可能性が高いわけですが、この現状を三人の先生方が喜んでいらっしゃるかというと、そんなことはないのではないかと思っています。
2006年に出版された『敬語表現教育の方法』を読むと、冒頭近くの4ページ目で「だれが、だれに、どういう時に、どういう所で、どういう状況で表現するときに、敬語を使う必要があるのか、あるいは、敬語を使う必要がないのか」が「重要な点」として強調されています。29ページでは
「敬語」も常に「文話」の中で考えていく
と書かれています。そのほかの箇所でも、一つの正しい言葉を使っていれば常に正しいわけではないんだということを繰り返し言葉を変えて説かれているからです。
最後に、アナウンサー、教授、カウンセラーなどいくつもの顔をお持ちの梶原しげるさんが著された『すべらない敬語』から134ページの言葉をご紹介します。
「させていただく」を非敬語で言えば「させてもらう」です。相手の、そうしてもい
いよ、という了解を与えられてはじめて成立する状況で使うべきなのです。
■「こちらの行為=”~させていただく”、相手の行為=”~していただく”」というルールはどの程度広まっているか
私は複数の会社、複数のコールセンターを経験しましたが、どこも敬語の教育には大差ありませんでした。「こちらの行為=”~させていただく”、相手の行為=”~していただく”」とマニュアルに書いてあるか、不文律かの違いはあれど、このルール自体は、おそらくどこのコールセンターでも似たようなものでしょう。現在、コールセンターで働いている人は、軽く10万人以上います。半分は正しい敬語を教えていると思いたいものですが、(私は残念ながら経験できませんでしたが、)そのうちの半分が上記のような指導を受けているとしても、日本人のうち5万人です。もしかしたら、コールセンターに限らず、飲食業、小売業など、接客業の多くでもそのような指導がされているかもしれません。そうすると、日本人のうち、もしかしたら10万人、20万人という単位の人々が、自分側の行為は「~させていただく」と言い、相手側の行為は「~していただく」と言ってさえいればそれが正しい日本語であり正しい敬語であると思い込んでいるかもしれないのです。
■敬語を単純化せざるを得ない企業の事情
しかし、企業にもそうせざるを得ない理由があります。
例えば、マニュアル敬語と言えば、「千円からお預かりします」という言い方も槍玉に上がりやすい言葉の一つです。いったんお預かりしたお金からお釣りを返すときのほうが、ぴったりの金額を払ってくれてお釣りを返す必要がない場合よりも圧倒的に多いでしょう。それであれば、お釣りがある前提のマニュアルを作り、その練習をするほうが、お釣りがない前提の練習をするよりも実際の役に立つという考えなのでしょう。少しでもマニュアルは簡単なほうが良く、少しでも研修期間は短い方が良いのです。
コールセンターはインターネットの普及と非正規雇用の拡大に伴って広がってきました。飲食店やコンビニなどのチェーン店も時代背景は同じでしょう。同業他社がお客さまへどのようにご案内しているのか、ネットに掲載されている情報であれば簡単に見つけることができます。生きた敬語を直接見て聞いて教わるのではなく、同業他社を横目で見ながら足並みを合わせようとします。
人間関係は希薄化し、頻繁に入れ替わる非正規の人々に業務内容を教えることが管理者の業務を圧迫します。教える末端管理職も非正規です。愛社精神も所属意識もない会社から求められるのは残業時間の削減と離職率の低下です。何かあるとすぐに辞めてしまう人たちをおいそれと叱ることもできなければ、そもそもその時間も割けません。このような中では、どのような敬語を使おうとも、クレームにさえならなければよしとせざるを得ません。
■これからの敬語
このような状況を鑑みると、本来の意味での敬語と、ファミレス、コンビニ、コールセンターなど即席で敬語を身につけなければならない人たちが使う敬語を分けていく必要があると思われます。そのためには、簡略敬語と一般敬語、敬語Ⅰ型と敬語Ⅱ型などと名称もはっきりと分ける必要もありそうです。
コンビニは無人化が始まりました。ファミレスもロボット化が進んでいくでしょう。ITについては全く知識がありませんが、予め設定された自動応答に、敬語の微妙なニュアンスの違いを含めたバリエーションを加えることは難しそうです。微妙にニュアンスの異なる敬語を使った様々な回答を登録することはできるかもしれませんが、相手の口調や細かな言い回しの違い、さらに対面接客であればその時の仕草や表情などから判断して、登録されたバリエーションの中からそのときに最適なパターンで回答するということはできるのでしょうか。
一方、コールセンターでは電話のほかにメールでの質問も受け付けているところが多くあります。メールでの対応には効率化を目指してテンプレート(回答のひな型)が数多く準備され、ほとんどの質問にはそのテンプレートが使われます。「テンプレートどおりの回答しやがって!」というのがよくあるクレームの一つですが、テンプレートを使わなくては仕事が回りません。加えて、チャットでの対応を行う企業もふえてきました。メール1通を作成するのにかかる作業者の時間はテンプレートで短くできますが、チャットではお客さまが入力する間、作業者の待ち時間が発生します。企業はその時間も有効活用しなければならないので、1人の作業者が同時に複数人に対応します。お客さまが入力している間は、別のお客さまへの対応をしているわけです。1人の人間が異なる質問に同時並行で対応しながら、文脈や微妙なニュアンスまで考慮してバリエーション豊かな敬語を瞬時に入力していくというのは無理があります。
さらには、これからの流れとしてAI(人工知能)の活用も各方面で広まっていくでしょう。10年後には、コールセンターでお客さまからのお問い合わせに対応するのも、ファミレスで注文を取るのもAIができるようになっているかもしれません。もしかしたらAIは営業マンにだってなれるのかもしれません。それを目指すとき、果たしてAIにどこまでの敬語を理解させることができるのでしょう。正しい文法を入力すれば正しい敬語が使いこなせるようになるのでしょうか。そもそも間違った敬語はありますが、唯一絶対の正しい敬語なんてありません。いくつもの言い回しの中から、自分の表現したい意図に最も沿った言い回しを選び、その言い回しに適切な敬語をあてはめていくという順番で言葉は選ばれていきます。このような臨機応変な判断もAIにできるのでしょうか。
50年後、100年後には一体一体個性豊かに敬語を使いこなすAIが普通になっているかもしれませんが、すぐに実現できる話ではないように思います。AIに設定できる敬語が用意できなければ、予め設定された自動応答以上の対応は難しいでしょう。
これらの点から、敬語の単純化へのニーズは今後もっと高まっていくと考えられます。そして、本シリーズの②でもご説明した、所属意識の希薄化による責任回避のニーズも現場では根強くあります。この二つのニーズから、様々な業種の現場において自然発生的に新敬語が生まれてきてはそれが広まり、他の業種でもそれが有効なら取り入れ、さらに他の業種はなんだか広まっているからそれが正しい敬語なんだろうと思って取り入れるという流れは加速していくでしょう。しかし、その人その人への配慮と単純化、相手を尊重し距離を取る敬語と責任回避のために敬語を使うこととは、言葉の上で似ている部分があったとしても同じものではありません。時代の要請から避けられない単純化を目指すためにも、本来あるべき敬語を再確認する必要はあるのではないでしょうか。と同時に、発話動機が本来の敬語とは真逆の”責任回避の敬語”を切り分ける作業をせず、言葉は時代とともに変わっていくものだと傍観していると、敬語はどんどん無秩序なものになっていってしまいかねません。
次回は、無秩序化の例として、こちらもファミコン言葉としてよく例に挙がる「ご注文の方、以上でよろしかったでしょうか?」より、「~のほう」という言い回しについて考えます。
それでは、また。
今回は、年内最後のブログです。
皆さま、良い年をお迎えください。