『日本語は親しさを伝えられるか』より「ご注文の方、以上でよろしかったでしょうか?」②

今回は、「ご注文の方、以上でよろしかったでしょうか?」という言い回しの後半部分「~でよろしかったでしょうか?」について考えていきます。

 

『日本語は親しさを伝えられるか』の中で、「以上でよろしかったでしょうか?」がどのように説明されているか

 

以下は、『日本語は親しさを伝えられるか』の中で、「以上でよろしかったでしょうか?」という言い回しについて述べられている部分です。

 

   「よろしいでしょうか?」と聞くと、”いま・ここ”の時空において客の決断を求めることに

   なる。それを避けるために、時を操作的に過去にずらして表現を間接化しているー

   「こうするのがいいと思いますが」よりも「こうするのがいいと思ったんですが」の方

   控え目に響くのと同じ原理である。(p.175)

 

 今風な敬語を擁護しなければならない特別な理由が何かおありだとしか思えない説明です。 

 

■過去にずらせば控え目になるか

 「こうするのがいいと思いますが」よりも「こうするのがいいと思ったんですが」の方が控え目に響くのは、「自分が思った」時を過去にずらすことで、「今思っているわけじゃないから、否定してもらっても別に構わないんですよ」と相手の自由意思を尊重する配慮がされているからです。

 

また、”いま・ここ”の時空において客の決断を求めることを避けるために、時を操作的に過去にずらして表現を間接化する必要があるというなら、なぜ立場を変えた例を挙げるのでしょうか。上記の例を、客に決断を求める聞き方に変えてみましょう。

 

いま決断を求める場合) 「こうするのがいいと思いますか?」

過去にずらした場合)  「こうするのがいいと思ったんですか?」

 

いかがでしょうか。過去にずらした方控え目に響きますか。かえって責められているようではありませんか。

 

英語であれば、来店客に予算を幾らくらいで考えているかを訊く際、「How much did you want to spend,sir?」と、これから使うお金のことを過去形で訊くと聞いたことがあります。もしかするとこのようなことを意識してらっしゃるのかもしれませんが、敬語体系も文化も違う英語のことです。そのまま取り入れるには無理があります。

 

■「~でよろしかったでしょうか?」は決断を求めているのか

問題の「よろしかったでしょうか?」は「よろしいでしょうか?」と聞こうと「よろしかったでしょうか?」と聞こうと、”いま・ここ”で答えなければならないことに変わりはありません。もっと言えば、客はすでに決断を終えている状況です。このセリフが出るとしたら、客が注文を伝えその注文内容を復唱したとき、もしくはすべての注文品を出したと店側が判断したときでしょう。それならば客に求められているのは”決断”ではなく”確認”です。なぜ”確認”を”決断”と言って、一般に問題とされる言い方を擁護しようとなさるのか、不思議でなりません。

 

■「~でよろしかったでしょうか?」と言うときの発話動機を考える

「~でよろしかったでしょうか?」という言い方は、過去のことを確認するときの言葉です。例えば「印刷所へは、ご指示どおり二色刷りで依頼をかけましたが、それでよろしかったでしょうか。」であれば、指示を受けたのも過去、依頼をかけたのも過去です。(この場合であれば、逆に「依頼をかけましたが、それでよろしいでしょうか。」はふさわしくありません。)もし上司から「何をやっているんだ。一色刷りと指示したはずだぞ。」と言われたら、「確認もせず思い込みで進めて申し訳ありませんでした。」と言えます。念のため補足しておくと、相手が否定しやすいように配慮するということは、自分の責任として受け止める腹積もりがいかにできているかということの表れでもあります。

 

一方で、問題の「以上でよろしかったでしょうか?」は、いま復唱した内容、もしくはいま出揃ったオーダー品について確認しています。それならば、いま目の前で起こっていることを過去のことにしてしまいたい、もしくはいま目の前で起こっていることではなく過去のことを取り上げたいという発話者の動機があるということです。

 

■”いま目の前で起こっていることを過去のことにしてしまいたい”場合の発話動機

 

いま自分が復唱したことを「操作的に過去にずらして表現を間接化していると解釈できます。客から間違いを指摘されたとき、今の自分が否定されるよりも、過去に間違ったときもあったと思えたほうが、受けるショックが少なくて済むからです。この場合は、自分自身を「敬避的」に扱っていることになります。

 

■”いま目の前で起こっていることではなく過去のことを取り上げたい”場合の発話動機

本来であれば、復唱とは、「私はお客さまの言っていることをこのように理解していますが、間違いはありませんか。あったらどうぞ指摘してくださいね」ということを意図して行うものです。もちろん人間には言い間違いも勘違いも心変わりもあります。したがって、100パーセント間違いなく復唱しても「そんなことは言っていない」と言われることがあります。それを「いえ、さっきはこうおっしゃいました」と主張する必要はなく、「失礼いたしました」と再度修正した内容で復唱します。間違いを指摘することではなく、お客さまに満足してもらうことが目的だからです。

つまり、オーダー(=過去)と復唱(=いま)の二つがあるときに、あえて過去に触れず、いま復唱したことを確認してもらうことで、自分の聞き間違いを確認してもらうのはもちろんのこと、オーダー間違いがあった場合も、客の体面を保ちながら修正することができるのです。その場合の訊きかたは、”いま(=復唱)”についての確認なので「以上でよろしいでしょうか。」です。

 

それを「以上でよろかったでしょうか。」と過去形で訊くということは、自分の復唱がオーダーと合っているかではなく、客の言ったオーダー自体に間違いがないかを確認しているということになります。復唱もしくは確認することによって客自身のオーダーが間違っていないか、過不足はないか確認をしてもらっているという意識です。これであれば、復唱(=いま)ではなくオーダー(=過去)のことを確認しているので、「(あなたはこうおっしゃいましたが)よろしかったでしょうか」と過去形で質問することになります。

 

オーダー品を全て出し終えた際の確認に限れば、自分は最後に持ってきたこの品しかわからないから、その前に出した品が合っていたかどうかをすべてを受け取ってわかっているはずの客に確認してもらうつもりで訊いている可能性も考えられます。こちらも自分がいま持ってきた品は敢えて確認事項から外し、自分が出したよりも前に出された品(=過去)について確認しているので、過去形になります。つまり、自分がいま持ってきた品が間違っている可能性は考えたくない。かつ、自分は店の代表などではないのだから、別の人が持ってきた品まで責任は持てないという意識です。

 

■「~でよろしかったでしょうか?」は責任回避のニーズから生まれた言葉である

ここまでで考察してきたように「以上でよろしかったでしょうか?」という言葉から伝わってくるのは、「私のことではありません」「私は責任を持っていません」という”責任回避のニーズ”です。この言い方が広く根付いているということは、このニーズも広く強いということでしょう。それは、仕事との関わり方を含めたアイデンティティにつながる部分なのかもしれません責任回避のニーズについては、12月28日のブログも併せてご覧ください。

 

もちろん発話者がこのようなことを意識して話しているとは思いません。「よろしいでしょうか。」と現在形で訊くのが、”なんとなく怖い”。「よろしかったでしょうか」と訊く方が”なんとなく安心”。そんな心理です。

 

しかし正しい敬語の使用法と照らし合わせて考えてみれば、その動機が浮き彫りになってきます。聞く側も、些細な一言一言について深く考察することはありません。それでも、その動機を敏感に感じ取ったとき、人は不快感を覚えるのです。

 

■別の例にあてはめてみる

例えば印刷所に発注したポスターが、上司からの指示どおりのデザインなったかどうかを見てほしいときに何と言うでしょうか。

 

「印刷所から見本のポスターが上がってきました。こちらでよろしかったでしょうか。」

 

これでは「私はあなたの指示どおりに印刷所に指示しましたから、これで違うなら、あとはあなたの問題ですよね。」と念押しされているようにも受け取られかねません。

 

「印刷所から見本のポスターが上がってきました。こちらでよろしいでしょうか。」

 

このようにいま確認することで、自分は次にどう動けばよいのか(印刷所へすり直しを依頼しなければならないのか、このまま指定部数刷らせるのか)、自分の未来の行動が変わります。そこには自分の行動に責任を持ち、会社の一員として目的に向かって能動的に取り組む姿勢が表現されると言ったら、大げさでしょうか。

 

さて、6回を使って、『日本語は親しさを伝えられるか』について考えを述べてきましたが、これでこのシリーズは終わりです。気になった箇所について書いてきたので批判ばかりしているようですが、他の部分はとても勉強になります。そもそも滝浦先生は大好きな先生で、特に『日本の敬語論』という本は、私の敬語観を変えてくれました。ぜひ皆さんも滝浦先生の本を直接読んでみてください。

 

責任回避のニーズが生まれる、もう一つの原因

最後に、責任回避のニーズが生まれる、もう一つの原因についても触れておきましょう。

私が考えるもう一つの原因は、クレームです。頻繁に入れ替わる非正規雇用の問題だけでなく、チェーン店やフランチャイズなど店舗そのものが巨大化することにより、客と店員の関係は、生身の人間同士というよりも単なる役割の相違になってきました。個人商店とお客さんの関係なら、お互いに名前を呼び、家族のことも知っているかもしれませんが、ファミリーレストランでは名前も素性もわからないのが普通です。

 

顔見知りであるということが、無茶を言ってわがままを通すことの抑止力になるはずですが、名前も素性も知らない関係性ではその抑止力が働きません。加えて個人情報保護などの影響により、さらに客の匿名性は高くなってきました。

(私が働いていたコールセンターなども、素性どころか、そもそも顔が見えません。)

 

そのような中で、1999年に起きた東芝クレーマー事件は、東芝だけでなく、接客業全体のトラウマとなったと言ってもよいでしょう。おもてなしの国である日本で「お客さまは神様です」という旗印をサービス業が降ろすことは難しいですが、「お客さまは神様です」という言葉を客自身が笠に着るならば、企業側も相互尊重とは言っていられなくなります。その後もクレームは増加傾向にあり、モンスタークレーマーなどの言葉も生まれました。敬語の中にこっそりと責任回避を忍び込ませる技は、悲しいことですがクレーマーから身を守る、企業の知恵なのかもしれません。

 

それでは、また。

 

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