■サボリ敬語
ジャーナリストの本多勝一氏は、その著書『日本語の作文技術』の中で「サボリ敬語」という節を設け、「敬語を使えない人が何でもかんでもデスをつけてごまかした結果」として「あぶないです」「小さすぎるであります」「死んじまっただ」を例に挙げています。
用言(活用する語)のあとに「ダ」や「デス」の連用形・終止形・連体形は
接続しない(『日本語の作文技術』p.223)
「死んじまっただ」なんて日常会話で使わないよ、という人も「おいしかったです」「良かったです」なら一度や二度使ったことがあるかもしれません。「おいしかったです」「良かったです」から敬語を除いて常体にすれば「おいしかっただ」「良かっただ」となり「死んじまっただ」と同じ形です。「とんでもないです」もよく耳にする言葉ですがこれは「あぶないです」と同じ形です。
本多氏が「軽薄・下品」と評したこの「サボリ敬語」ですが、平成19年の『敬語の指針』では、「とんでもないです」どころか、「とんでもございません」が認められました。
※「大きいです」「小さいです」(「とんでもないです」も同じ形)などは、『これからの敬語』(国語審議会建議 1952年)にて、既に「平明・簡素な形として認めてよい」とされていますが、本多氏は文法がどうであろうと「文章としてはこれが邪道」と述べています。
■『敬語の指針』の「とんでもございません」の説明部分
「とんでもございません」( とんでもありません )は,相手からの褒め
や賞賛 などを軽く打ち消すときの表現であり,現在では,こうした状況
で使うことは問題が ないと考えられる。
本多氏がこれをどのように受け止めたかわかりませんが、私は「サボリ敬語」だと考えます。それも、「何でもかんでもデスをつけてごまか」すこと以上のサボリです。
■「とんでもございません」は敬語版の「ヤバい」
このケーキ「ヤバい」、あいつ「ヤバい」、明日のテストも「ヤバい」、ドラマも「ヤバい」、歌も「ヤバい」、俳優も「ヤバい」……。
何にでも使える言葉とは何も意味していないのと同じです。単に相手から同意を得るための言葉に過ぎません。同意を求められる相手にしてみても、特に何も意味していなければ反論する必要もありません。どのように「ヤバイ」のかを深堀りして、「うーん、そういう見方もあるかもしれないけど、私は少し違う感じ方をしていて」なんて言わなければならないような状況になりたくない人たちにはとても便利な言葉でしょう。そして「ヤバいよね」「ヤバいヤバい」という言葉のキャッチボールは連帯感や仲間意識を作ってくれます。
では「とんでもございません」はどうでしょうか。
「とんでもない」であれば形容詞なので”何が”とんでもないのか”どのように”とんでもないのかを説明する必要がありました。例えば「赤い」という形容詞だけでは何を言いたいのかわからないので、「赤い花が咲いているよ」「目が赤いね」などと言わなければいけません。
同様に、「とんでもない」を使って文章を作るならぱっと思いつくのは下記のような例です。
「そのようにもったいないお言葉をかけていただくなど、とんでもないことです」
「とんでもない。そのようなことはお気になさらないでください」
「そのようなとんでもない。私の立場で許されることではございません」
しかし、「とんでもございません」が認められることで、それは独立語として使えるようになりました。
「素晴らしいわね」「とんでもございません」
「ごめんなさいね」「とんでもございません」
「ありがとう」「とんでもございません」
「俺をバカにしているのか」「とんでもございません」
敬語ですから、主に使われるのはビジネスの場だと思われますが、お客様に接する際や上司との会話で、業務に直接関係のない感情を表すような言葉には、ほぼこの「とんでもございません」一言で対応できるのです。
特に「ありがとう」のように「とんでもない」という否定が不自然な言葉にも「とんでもございません」なら使えるということで、便利度は一気に上がります。
例えば、ホテルで客が荷物を運んでくれたポーターに「ありがとう」と言ったとしましょう。そのとき、ポーターが「とんでもない」と言ったのでは返答になりません。文章になっていない単語を一つ言うだけでは、敬語も使われていませんし、きちんとした一文ではなく省略した文章で話すことが敬意と反しています。また、この場合の感謝は客が感じたことであり、それを言下に否定することは偉そうにも聞こえます。
しかし「とんでもございません」なら可能です。「とんでもございません」の一言があれば「そのようにおっしゃっていただくと励みになります」「このようなことでお役に立てるならいつでもお申し付けください」「お礼には及びません」等々のその場その場で感じた敬意を言葉として紡ぎだす必要がなくなります。
そして、私が「サボリ」というのはまさにこの点です。業務に直接関係のない感情を表す言葉を言われたら「とんでもございません」と答える。この機械的な作業に敬意はあるでしょうか。相手が気持ちを込めて伝えてくれた言葉を機械的に打ち返すだけの言葉なら、相手は気持ちを込めれば込めるほど虚しく感じることでしょう。
実際に、文化庁の『平成25年度「国語に関する世論調査」の結果の概要』を見ると、平成15年度の調査時より「とんでもございません」という言い方が気になると回答した人の割合が増加しているのです。
「とんでもございません」という言葉を使っていても機械的とは限らない、ちゃんと気持ちを込めているという人も勿論いるでしょう。そのような人なら、その込めている気持ちをちゃんと言葉にしてほしいと思います。言葉数を減らし手間を省こうとすること自体が敬意と反していますし、常々言葉にしていないと段々言葉を忘れ、気持ちも忘れてしまうようになります。(何年も仕事上で「ありがとう」と言われるたびに「とんでもございません」と言っている人に、「ありがとうと言われるとどんな気持ち?」と聞いたら、「え、どんな気持ちと言われても、”とんでもございません”っていう気持ちかしら」と答えるかもしれません。ジョージ・オーウェルの小説『1984年』もよかったら読んでみてください。言葉が言葉を使う人そのものに与える影響の大きさが描かれています。)
言葉を大切にすることは、自分の気持ちを大切にすることです。相手を大切に思う気持ちを表す言葉なら、なおさら大切にしてほしいと思います。
それでは、また。