もう去年のことになりますが、『敬語の指針』を理解するためのセミナーについて告知いたしました。そこで今回は、『敬語の指針』の中に出てくる、「相互尊重」という言葉をキーワードに進めてみたいと思います。
■相互尊重
文化庁が出している『敬語の指針』では「相互尊重」という言葉が何度か出てきます。
それを一言でまとめると、立場の違いやその時々の関係性は、人の価値の違いではなく、全ての人は平等だという考え方に基づいています。
もう少し詳しく言い換えると、相互尊重とは「あなたと私は生まれ育った環境も違えばどんな経験を積んできたかも違う。性格も考え方も、持っているもの、持っていないもの、立場や責任も何もかも違うけれども、それでも、つながっている」という感覚に基づいた自発的で主体的な行為です。
私が『敬語の指針』が好きな理由はここです。
■自己肯定感がなければ相互尊重はできない
講座では「感謝の気持ちにもとづいて敬語を使う」という説明をすることが多いのですが、「感謝」のもとになるのは「よかった」という感覚です。そしてこの「よかった」という感覚を持てるということは、現実を受け入れることができるということです。現実は自分の五感を通して認識するものですので、自分を受け入れられない人は、現実を加工したり、都合のいい一部分しか受け入れられなかったりして、現実と自分の間に壁を作ってしまいます。それを言葉で言えば「こんなことが許されるわけがない」「~であるべきだ」だったり「そうは言っても~なんだ」「自分のせいじゃない。~が~だからだ」だったりします。
■自己肯定感がある状態では「よかった」と思える
例えば、上司に怒られたときに、「間違いに気づけてよかった」と思えなければ感謝はできません。感謝できないまま使われる敬語は空々しく、関係を形骸化します。
一方で怒られたことを不条理に感じていても、それを愚痴として話せる仲間がいれば、「話を聞いてくれる同僚がいてくれてよかった」と感じることができるかもしれません。そして「よかった」を感じることで、「そうは言っても上司だから」とつながろうと思う気持ちが敬語になって表れればそれでよいと思うのです。敬語は人と人の間に距離を取るものです。安全な距離を保つことができれば、壁を作らなくて済みます。たとえ遠くても、つながろうとするなら、それは関係を構築するための敬語です。
このように、「よかった」という感覚がどこかで持てれば、それは人と人をつなぎとめると思うのです。上司に対して、直接に「よかった」とは思えなくても、同僚を通してでも上司のことを「よかった」と思えるなら上司ともつながっていられますよね。
抽象的な話でうまく説明できたか心許ないのですが、この「よかった」という感覚は出来事に触れたときの受動的な反応ではなく、主体的に作り出す感覚であり、相互尊重のために必要な感覚だと思っています。
逆の言い方をすれば、「よかった」という感覚を持ちづらい人は自己肯定感が乏しいうえにつながっている感覚も持ちづらいので、疎外感に苛まれやすくなります。相互尊重とは、行動としては一つの配慮ですが、疎外感に苛まれている人が目の前の相手に配慮を示すのは、周りの人とつながっている実感を持っている人が目の前の相手に配慮を示すのと比べると、格段に難しいということは、なんとなく想像できるのではないでしょうか。
■自己肯定感が乏しい人にとって、自己肯定感を守ることは何よりも重要
自己肯定感が全く無いという人がいたら、その人は自殺さえ選びかねません。そのぐらい、自己肯定感とは人が生きるうえで大切なものです。
もし自己肯定感が乏しいならば、そのほんのわずかしかない自己肯定感を守るために、人は現実認識をゆがめ、責任を転嫁し、うちに引きこもり、様々な手段を講じることでしょう。それはずるいかどうかという問題ではなく、人が生きるために必要なことをしているのです。
しかも、それは外からは見えません。いつも笑顔の人が実は必死で笑顔を作っていることだってあり得ます。だから、誰の自己肯定感も大切にされなければならないのです。
■自己肯定感に基づく自信と傲慢の違い
自己肯定感を、無根拠な自信であり、恐れず現実を受け入れる謙虚さを伴った自信のことであると考えると、敬語で表すべき敬意(=相互尊重)が理解しやすくなります。
例えば、「自分の言うことに従わないなんて、傲慢な部下だ」と考えている人がいたら、その人は自分に従わない部下がいるという事実を受け入れず、その部下のせいにしています。このような人は自己肯定感が自分の中にないからこそ、必死に自分を守らなければなりません。もしかすると、十分な自己肯定感は持っていても、上司という立場に自信がないのかもしれません。だからこそ、”頑張って”強い上司であり続けなければ、と自分を追い込んでしまっているのかもしれません。
また例えば「部下のやり方を認めない上司なんて最低だ」と思っている人がいたとしたら、その人は自分のやり方と上司のやり方の間に壁を作り、別のやり方があるという事実を自分の世界に持ち込ませまいとしています。部下がそのとき守っているのは、実は、やり方ではなく、自分の世界です。
上記の例は、「部下は上司の言うことを聞くべきだ」「人それぞれのやり方を認めるべきだ」という根拠にしがみつくことで自信を守ろうとしている姿勢であり、このような態度を一般に人は傲慢と感じます。
傲慢は恐れを感じていないように見えますが、恐れなくて済むように現実を拒否しているに過ぎません。
当然ながら、拒否から相互尊重にはつながりませんから、傲慢な状態では適切な敬語は使えません。
■傲慢と卑屈の違い
傲慢な上司と部下の例を挙げましたが、それぞれの例をひっくり返せば、今度は卑屈になります。
例えば、部下は上司の言うことに従うべきだと考えているAは、Aの上司が何を指示しようと従わなければいけないと思っていることでしょう。
※更に自己肯定感が低い(自信がない)人の場合、「部下は俺の言うことを聞くべきだ」と考えながら「上司は俺の意見を尊重すべきだ」と考えるなどと軸が自分の都合のよいようにねじ曲がります。そこまでしないと自分が保てないのです。
自分のやり方にこだわる部下は、そのやり方が他のやり方よりも劣ることが明らかになってしまったら、自尊心が砕けてしまうでしょう。(自尊心が砕け散ったなら、パニックになるか、これ以上自分のやり方を主張して自尊心が傷つかないよう引きこもり、相手のやり方に全てをゆだねるようになってしまうかもしれません。)
■自己肯定感に基づく自信とは
自己肯定感に基づく自信の場合、無根拠なので、いつでもゼロベースに戻って考えることができます。
・「上司の指示だからという理由では従えない人がいるのか」と現実を受け入れ、「困ったな」という自分の感情を、立場を否定されたような恐れを抱かずに感じることができます
・自身の有能感にもこだわる必要がないので、自分で解決策を思いつかなければ誰に相談するのが一番よいかを検討することができます
・自分の見方にもこだわらないので、従わない理由について、部下の立場に立って想像してみようとすることもできます
その結果、部下は自己肯定感が低く、指示されることで自尊心が傷ついていた、という結論に達したなら、自分の言い方や接し方を変えることもこだわりなく選択肢に入れることができるでしょう。
■あらためて相互尊重について
相手を否定することなく、自分を否定することなく、相互に尊重するためには自己肯定感が土台としてなければなりません。
この自己肯定感は、その人の人生をかけて築いてきたものなので、一朝一夕にどうこうすることはできません。
また、上記で自己肯定感に基づく自信に満ちた上司の例を挙げましたが、それはあくまで理想であり、私ならこのように考えられるというわけではありません。
しかし、敬語を使うことで、その理想を目標にすることはできるはずです。
相互尊重に目上から、目下からというルールはありません。相手から尊重されるのを待つ前に自分から相手を尊重したいものです。
適切な敬語を使うことで相互尊重を実践し、相互尊重の中でさらに自己肯定感が育まれるような、そんな人間関係の中で皆が働ける、そんな会社が一つでも増えたらという願いを持って、今年も敬語講座を開いていきたいと思います。
それでは、また。