心愛ちゃん事件に寄せて

千葉県野田市で、当時10歳の栗原心愛ちゃんが殺害され、父親である勇一郎被告の判決が、3月19日に下りた。求刑18年に対し、懲役16年の判決だ。

この刑が軽すぎるという書きこみも多くあるようだが、戸塚ヨットスクールの一審判決(1992年)が執行猶予だったことと比べると、多少は子どもの人権が認められるようになったと考えるべきか。

 

また、このような痛ましい事件が起こる前に、誰か止めることはできなかったのか、彼女を助ける法律は日本になかったのか、多くの人が悔やんでいることだろう。心愛ちゃんは児童相談所につながっていたにもかかわらず、殺されてしまった。そして、児童相談所につながっていたにもかかわらず痛ましい結末を迎えてしまったのは心愛ちゃんにはじまったことではない。何度も何度も繰り返されている。

 

と、このように書くと「児童相談所は何をやっていたんだ」という非難のように受け止められるかもしれないが、少し違う。学校にも、地域にも、家族にも、もっと何かできることがあったのかもしれないし、なかったのかもしれない。DV法が機能して妻を守ることができれば、母として子を守ることもできたかもしれないし、そのような問題ではないのかもしれない。それらは、本ブログの趣旨とは異なる。

 

今回このブログを書こうと思ったのは、児童相談所の心理士が「私が殺されてもいいから止めたかった。」と裁判で発言したという記事を読んだことがきっかけである。これは仕事ではないと感じたのだ。

 

■この発言に感じた違和感

仕事であれば、組織の目的に沿って行うべきことや役割に応じたことを淡々とこなしていけばよい。そして、児童が受けている虐待を止めることは児童相談所の目的から外れてはいないだろう。しかし、この発言では、それが「私」の責任になっているようだ。

 

そして、失敗は改善につながらず、児童相談所につながっていながら殺されてしまう悲劇が繰り返される。この心理士の発言は、組織に頼れない実情を表していないだろうか。しかしそもそも親権に逆らって子どもを保護するなどは個人として取り組むような問題では当然なく、できないことをできないと分かっていながらも、一方では直接かかわっている私がやらなくてはいけないと責任を感じていたからこそ、このよう発言が出てしまったのではないだろうか。

 

例えばこれが食品偽装だったらどうだろうか。特定の企業が賞味期限を偽って出荷していたとしたら。それが発覚後も繰り返されたとしたら。製造ラインで働く誰か真面目な一人の社員の努力によって食品偽装が防げるなどと、誰が考えるだろう。「私さえもっと頑張っていれば防げたのに」と後悔する社員がいるだろうか。

もちろん一人一人の努力は大事だが、一人一人とはつまり皆のことであって、誰か1人が頑張ればよいわけではない。

 

そのような企業に対しては、営業停止の行政処分が下され、株主総会で社長が変えられ、第三者委員会が介入することだろう。マニュアルが見直され、今まで蔓延していた誤った考え方を一掃すべく、社内研修が実施される。

 

果たして子どもが親に殺されることは、食品偽装よりも重要度の低いことだろうか。ではなぜ営業停止にならないのか。トップが変わっても同じことが繰り返されるのか。

 

それは代わりがないからなのだろう。児童相談所がいくら失態を犯そうと、児童相談所をなくすわけにはいかない。

 

しかし、それでは児童相談所は永遠に変わらないのか。そんなこともないはずだ。

では、どうすればよいのか。

私はコールセンターでの経験が長く、それ以外の様々な業種について熟知しているとは言い難いが、それでも組織として仕事をする上では共通している点もあるのではないか。

 

想定外のことが起ると想定する

例えば電話応対が上達しない人は、応対クレームを引き起こしても、「今まで私が対応した人はクレームを言ってきたりしないのだから、あの人が変な人だったのだ」と考えて自分の対応を改めようとはしない。またクレームを引き起こしても、以前にクレームを言ってきた人が変な人だったのと同じで、今度クレームを言ってきた人も変な人だというだけだ。

 

想定外のことを、想定外だと切って捨てることは簡単だが、想定外のことを想定に組み込むことで個人としても組織としても、スキルが向上していく。ましてここで切って捨てられるのは、単にスキルの向上ではなく、子どもだ。

 

本来であれば、失敗を糧に次回同様のことが起きたらどうするのかということを決めておくべきだが、せめて記録を取り、「前回と同じことはしない」ということだけでも徹底してほしい。

自分たちの仕事の範囲はここまでで、これから先は想定外だと決めてしまったら、切って捨てられた子どもたちが報われない。

 

②報連相が機能している

想定外のことにマニュアルはない。マニュアルがないなら相談しながら進めなければならない。

 

常日頃から報告や連絡ができていなければ、何かあったときに相談はできない。何かあって相談を受けた上長が、その役を果たさなければ、次から部下が相談することはないだろう。

 

それでは、上長が上長としての役を果たすためには、自分では判断・対応ができないことを、さらにその上長に相談できなければならない。さらには警察や弁護士、司法機関など、必要に応じて適宜連携ができなければならない。

 

児童相談所運営指針に「家庭裁判所が関与する仕組みを導入するなど」と書かれているように、重要なのは仕組みなのだ。この仕組みがなければ、一人一人の職員がいくら一生懸命になっても、その気持ちは空回りしてしまう。逆に仕組みがしっかりしていれば、人が異動になっても同じサービスが提供できる。

 

なお、今回の件では、市教育委員会学校教育部の次長兼指導課長らが懲戒処分にされている。が、果たしてこの課長は、困ったことや自分の範囲を超えたことを部長に相談できるような人間関係にあったのだろうか。課長よりも部長のほうが罪が軽く、市教委が懲戒処分を行うならば、「組織的な問題ではない、個人の問題だ」と宣言しているようなものではないか。教育委員会についても、これで改善ができるとは、残念ながら思えない。DV被害者のサポートをしている団体にアンケートを取るなどすれば、実際に似たようなケースがどのくらいあるか実態は把握できるはずだ。加害者から逃げているのに、親権を笠に着て子どもを登校させ、登校したところをつかまえて引き戻すなど、加害者の協力をしているケースが他にないか調査をするなら、関係者は、教育委員会が変わるためにアンケートに喜んで協力するだろう。

 

立場は違っても、共通の目的を持つ

児童相談所の運営指針を読むと、児童相談所の設置目的は「子どもの福祉を図るとともに、その権利を擁護すること」とある。組織のうちの一人が必死にその願いをもって働いていても、他の人が持っていなければ、組織として実現するのは不可能に近くなる。部下も上司も同じ目的を共有し、その目的を達成するための役割分担であることがお互いに理解されていなければならない

 

■一番重要なことは報連相

3つのポイントを挙げたが、その中でも一番重要なことは、報連相だろう。

 

心理士が「お前を個人として訴えてやる」と脅されたときに、組織を頼ることができなければ、自分の身を守らざるを得ない。このようなクレームは一般企業にだってある。そのようなときに一番大切なことは、クレームに対応している人を一人にしないことだ。対応しているその人を組織が支えなければならないし、時に人を替えるなどして、組織として対応していることを相手にも分からせなければならない。例えば「個人として訴えてやる」と言われたときに、次々と人が替わって5人が同じことを伝えたなら、5人を訴えなければならなくなる。それだけで訴えられる危険性は激減するはずだ。実際には、5人も必要なく、上司が出てきて部下と同じことを言えば、それで十分相手にはこの組織が一枚岩であることを分からせることができる。

 

もちろんクレーマーはそうさせないように、なんとか対応者を心理的に孤立させ、相談できないようにする。だからこそ、普段からの報連相が大切なのだ。

 

相談された側が、代々それを仕事の一環としてとらえてきていたなら、ケーススタディとして蓄積していたなら、そして蓄積されたケーススタディが皆に共有されていたなら「個人として訴えてやる」などという陳腐な脅し文句を恐れる必要はなかったはずだ。

 

 

■役所も組織

児童相談所の話ではないが、以前、利用者からのクレームに悩む役所勤めの人が、「役所の仕事は法律で決められているから1ミリも動かせないんだ」と嘆いていた。しかし役所であれ一般企業であれ、できないことはできないし、役所であろうが何であろうが、言い方ひとつでクレームの反応は大きく変わる。「1ミリも動かせない」というのは、誰に相談しても有効なアドバイスも返ってこず、変えられるところがあることに気づくこともできず、怒鳴られ続ける以外にないとあきらめている気持ちの表れだったのではないか。

 

虐待家庭を見ても、大体「孤立」し、「相談できない」ことが原因として挙げられている。組織でも同じことだ。孤立し、相談できない環境では、弱い者がしわ寄せに遭う。児童相談所が虐待家庭と同じ原因を抱えているなどというようなことはないだろうか。

 

児童相談所だろうが役所だろうが組織であることには変わりない。組織が組織としてきちっと機能するのに、特別なことは必要ない。基本を愚直にやってほしい。

 

それでは、また。

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