勉強になる動画が無料で見られると聞き、見てみた。新入社員向けの動画で、言葉遣いについて説明されているものがあったからだ。
言葉に気をつけて話すことで人間関係がスムーズになる一方、不適切な言葉を使えば相手の機嫌を損ねたり自分への不信感を招いてしまうなど、言葉遣いの大切さが説かれていた。
そこまではよいのだが、その後の敬語の説明がいけない。
■「話させていただきます」は「話す」の謙譲語ではありません
何がそんなにいけないのかというと、「自分が話す」ということを謙譲語で何と言うかという例として、下記の3つが挙げられていたのだ。
①私が話させていただきます。
②私がお話しします。
③私が申し上げます。
「謙譲語Ⅰ」「謙譲語Ⅱ」という言葉も使って説明していたので、それらのことは知っているはずなのに、謙譲語Ⅱの例が一つもないことも気になるが、そんなことがどうでもよくなるほど気になるのは①だ。「話す」の謙譲語が「話させていただく」などとは、聞いたことがない。
平成19年の『敬語の指針』(p.40)にも、
条件を どの程度満たすかによって 「発表させていただく」など
「…(さ)せていただく」を 用いた表現には、適切な場合と、
余り適切だとは言えない場合とがある。
とある。
そして、その条件とは下記の2つだ。(同ページより引用)
ア)相手側又は第三者の許可を受けて行い
イ)そのことで恩恵を 受けるという事実や気持ちのある場合
決して「話す」を単純に謙譲語にした場合、「~ていただく」にはならないのだ。
とはいえ、これは覚えておくと便利なフレーズとして紹介しただけかもしれない、「自分が話すという状況で使えるフレーズ」を案内しただけなのではないかと思いなおして動画を見進めた。
■「~ていただく」を付けることは付加形式ではありません
動画の続きを見た。そして、「自分が話すという状況で使えるフレーズ」を案内しただけなのではないかという淡い期待は瞬時に蒸発して消え失せた。付加形式の謙譲語の作り方として「~ていただく」を紹介していたからだ。付加形式の謙譲語といえば「お~する」だが、なんと
”普通の言葉”に「~ていただく」を付ければ謙譲語になる
と言うのだ。※「普通の言葉」とは無敬語の動詞を指すと思われる
「私が話します」は「私が話させていただきます」
「私が聴きます」は「私が聴かせていただきます」
「私が荷物を持ちます」は「私が荷物を持たせていただきます」
「もちろん相手の荷物であれば”お”荷物とします。」との補足説明までされていた。
ということは、相手の荷物ではなくても、たとえ自分の荷物を持つ場合であっても「私が荷物を持たせていただきます」と言うのが正しい謙譲語だと言っているのだ。「私が(自分の)荷物を持たせていただきます」と述べることが相応しい状況とは、いったいどのような状況だろうか。あり得なくはないだろうが、きわめて想像しづらい。
■矛盾した説明
”普通の言葉”に「~ていただく」を付ければ謙譲語になる、という説明と、例文を見比べると、講師の説明と例文がそもそも合っていない。もし、講師の説明どおり普通の動詞に「~ていただく」を付けるなら、
「私が話します」は「私が話していただきます」となり、
「私が聴きます」は「私が聴いていただきます」となり、
「私が荷物を持ちます」は「私が荷物を持っていただきます」となる。
これでは、誰もがおかしいと気づくだろう。
だが一方で、付加形式の説明として、
普通の言葉に「~させていただく」を付ける
とするのもさすがにおかしいと思ったということなのだろう。
いずれにせよとんでもない話だ。
■自己表現とはいえ、誤用は避けましょう
『敬語の指針』(p.63)には
「自己表現」として敬語を使用する場合でも、敬語の明らかな誤用や
過不足は避けることを心掛ける。
とある。
「話させていただきます」を「話します」の謙譲語と説明することは、前回のブログに書いた”自己表現”というレベルをはるかに逸脱した、完全な間違いである。「私が話させていただきます」を無敬語に戻せば「私が話させてもらいます」であり、決して「私が話します」にはならないのだ。
その後も「お(ご)~する」は「~ていただく」よりも、一層自分がへりくだり相手を高めたい表現であるなどと耳を疑う説明が続く。
これは個人が勝手にアップしている動画の話ではない。待遇研修やマナー教育を行っている団体が作った動画であり、それを企業が採用して自社の社員に見せているのだ。
間違った敬語を新入社員が教えられるのでは、間違った敬語が広まるのも当然だ。
■敬語が消え失せる前に、正しい敬語を残したい
間違った敬語では何がいけないのか。それは正しい人間関係を表現できず、適切な敬意が持てなくなるからだ。
「お話しする」と「お話しさせていただく」では込められた気持ちが異なる。それは、言ってみれば「嬉しい」と「楽しい」という言葉の違いと同じほどに異なる。込める気持ちが異なるのだから、使用する状況も異なる。
それなのに日本語を母国語とする者がその違いを分からないとしたら、敬語という日本語が既に一部消滅しているということと同じだ。アイヌ語を守るために頑張っている人たちがいる。地域の文化風習を守るために尽力している人たちがいる。敬語も、消え失せる前に守りたい。微力ではあるが。
それでは、また。