先月ご紹介した、デモクラシーフィットネスにて、今回は「まきこみ筋」を鍛えてまいりました。
そこで今回は、現代のデンマークからやってきたデモクラシーフィットネスで感じたことから、日本の戦国時代まで、壮大なスケールでデモクラシーと敬語について考えます。
■まきこみ筋
何かをしようと思ったとき、自分一人でもできることでも、誰かと一緒にやれば早くできます。自分一人でできないことも、みんなでやればできるかもしれません。
そのように、一緒に考えたり行動してくれたりする人は多ければ多いほどよいのですが、そのためには自分が旗を振って目立たなければいけなかったり、強いリーダーシップで全責任を引き受けなければいけなかったりするのではないか、それなら現状に甘んじていたほうがいいかなぁ、とおよび腰になってしまう日本人は多いのではないでしょうか。かく言う私も、その一人です。
しかし、デモクラシーフィットネスの主催者であるさなえさんとソーレンさんは、このまきこみ筋を鍛える目的を「ディベートのように相手を言葉で屈服させるのではなく、相手との新しい関係を育むこと」と説明しています。
■巻き込まれる側の在り方
主催者の意図とは異なるかもしれませんが、今回のフィットネスで私が驚いたのは、まきこむ側よりも巻き込まれる側の在り方です。
何かテーマが掲げられたときに、当然のこととして(というと言いすぎかもしれませんが)「私はこう思う」「私ならこうする」「私がやるとしたらこんなことができるかもしれない」という言葉が出てくることを前提しているのです。自然に言葉が出てくるとまでは言わなくても、聞けば答えてくれるはず、という前提です。
そこには、自分ごととして考え、自分の意見を持ち、自分がどこまでかかわるべきかを含めて何ができるのかを考える、「今起きている状況を含めて自分の人生として捉え、その人生の主体は自分である」という考え方が横たわっているように感じました。
しかし、日本人であれば、そんなとき、こんな言葉が出てくるのではないでしょうか。
「考えたことありませんでした」
「あぁ、そうなんですね」
「すごいですね!」
「え、私ですか、ん~どうだろう。すぐには出てこないですね~」
何はともあれ、相手を傷つけず、自分が責任を持たなくていい言葉を探す。
そこには、生意気だと思われたくない、違う意見を言って対立したくない、そして、責任を負いたくない、そんな動機が見え隠れします。
相手を傷つけたくないのは、自分が傷つきたくないからです。
■敬語的な在り方とは
敬語は、相手と距離を取り、自分を守るという機能もありますので、状況によっては、当たり障りのないことを言うという選択肢もあります。
しかし、そのときそこには守るべき自己があるのです。
※敬語は単なる文法ではありません。考え方や姿勢や気持ちを表す言葉です。したがって、次の章で「敬語は」と書いてあるのは「敬語のもととなる考え方や姿勢や気持ち」をひっくるめて言っているとお考えください。
①言わずに察する
敬語は、相手を尊重します。相手を操作することをきらい、相手をあるがままに受容します。相手を変えるのではなく、自分が変わろうとします。
海外の企業が「日本人は不満を言わないが、不満を抱えた客は二度と利用してくれない」という主旨のことを言っていましたが、この例もその表れのうちの一つの形です。相手を変えようとはせず、自分がそこから距離を取るのです。
逆にいえば、自分から何も言わないと分かっている日本人は、相手が言ってくれるのを待つのではなく、察して相手に合わせようとします。
このケースでいえば、察して行動し、リピートしてもらえればOKだし、リピートしてもらえなければ何が悪かったんだろうと想像して、望む反応が得られるまで、何度でも自分を変えるのです。
これが、敬語的な行動の一つです。
②言わずに合わせる
敬語は、自分を変えることにやぶさかではありませんが、絶対譲れないものは守ります。
例えばその会社に入ったばかりの自分はAがいいと思っているが、周りのみんなはBがいいと思っているときに、今、Aと言っても誰にも聞いてもらえないから、まずは自分が出世して、自分の意見を聞いてもらえる立場になるまではこの考えは伏せておこう、などと考えるのが、言わずに合わせるということです。
もちろん、誰にも聞いてもらえないのは、単純に「偉くないから」「権力がないから」という問題ではなく、そこに至る経験も知識も人脈もないからです。みんなが信頼するほどに経験や知識や人脈を備え、判断力や行動力を養ってもなおAがいいという考えが変わらないなら、それは本物と言えるでしょうし、みんなを説得することもできるでしょう。
■そこには確固たる主体がある
今、①と②、二つの例を挙げましたが、敬語から見えてくるのは非常に個を重んじる主体的な日本人像です。
これは、以前のブログでお伝えした、敬語に必要な「主体的に生きる筋肉」につながっています。
先に述べた「え、私ですか、ん~どうだろう。」という人の中にも、①②の人はいるでしょうが、一方で、そのような主体となる自分がそもそも貧弱なのではないかと思われるような人も一定数混じっているであろうことは、誰しも感じているところではないでしょうか。
では、敬語から見える日本人は、非常に個が強いのに、現在では真逆とも思われるような状況が広がっているのはなぜなのでしょう。
敬語が育まれた昔は個が強かったのでしょうか。
なぜ昔は個が強かったのでしょう。
なぜ?
そう思っていたとき、1冊の本を見つけました。
引用します。
村の意志や行動は、特定の家や人物が決定するのではなく、
構成員が全員参加した寄合によって決定された。p.63
しかも、この本の著者である黒田基樹氏にインタビューした「朝日新聞GLOBE+」の記事によれば、この寄合は、
全員一致が原則で
三日三晩、酒盛りをしながら、あーでもない、こーでもないと語り合った
のだそうです。
私はここに一つの解を見つけた気がしました。
■昔の日本は民主的だった
この記事の題名にもあるように、昔のほうが民主的だったのではないでしょうか。
現在の選挙は多数決です。多数決で物事を決めるのは民主主義国家だからです。総理大臣から学級委員長まで、政治から株主総会まで、日本には多数決で決められることが多くあります。したがって、日本には民主主義が浸透しています。
……本当にそうでしょうか。
多数決とはキリスト教の反省から生まれた考え方だという話を聞いたことがあります。
誰に神が降りているか分からないのだから、誰か一人が「私がイエスだ!私の言うことを聞け!」とならないように、確率的に多数決で決めることにした、という話です。
しかし、日本にはそこまでキリスト教の信仰が人々の心に根付いているわけではありません。
それよりも日本人的な感覚としては、「和を以て貴しとなす」のほうがしっくりきます。
そして、全員一致が原則で、寄合で三日三晩話し合ったということは、三日間誰かが納得しなかったし、それを心のうちに秘めていたのではなく、納得できない!と言ったのです。
■そして、みんなが納得しあえる社会づくりを
「和を以て貴しとなす」とは、言いたいことを言わないことではなく、相手の話を聞かずに自己主張だけを繰り返すことでもなく、みんなが言い尽くしてみんなが納得できるところを探すことだったのではないでしょうか。
しかも、「酒盛りをしながら、あーでもない、こーでもない」という話し合いなら、それは決して対立ではなかったろうとと思うのです。
そして、この話し合いの中で、個は磨かれ、強くなっていったのではないでしょうか。
強く磨かれた個をもって主体的に生きる中で相手を尊重する、そんな日本社会にもう一度なってほしいと思います。
それでは、また。
コメントをお書きください