でも、大好きなので、この本もご紹介します。
※面識もない本の著者に敬称は付けないのが基本ですが、大好きなのでこのブログでも「先生」とお呼びしています。
今回ご紹介する本は『ほんとうの敬語』です。
■日本語は敬語である
「きょうはいいお天気ですね」
「すいません、手が空いたんですけど、何したらいいですか」
「道を聞きたいんですけど、ちょっといいですか」
仕事でも日常でも、知らない人にも知っている人にも、誰かと話すなら敬語を使います。
それを萩野先生はこのように書いていらっしゃいます。
日本語の場合は、相手・場面をはっきりと認識し、自分とのなんらかの上下関係をとらえない限り、こんな簡単なことを言うのにもいっさい声が出せない。表現形式をととのえ確定することができない、すなわち敬語の関与なしに日本人は言語生活が営めない、という運命にあるのです。
そうである以上、私たちの「言語生活」はそのまま「敬語生活」である、というのは乱暴な結論ではないでしょう。言い換えれば「日本語は敬語である」のです。(p.23)
まさしく、そのとおりです。自信に満ちたその文章が誠に痛快で、読んでいて実に気持ちがいいのです。
先生の言葉に加えて言えば、家庭の中の敬語であればその家の文化としてどのような敬語が使われていようと口出しはできませんが、外に出たなら、ことにそれがビジネスということであれば、言葉の意味が正確に伝わることが肝要です。
■敬語界の日蓮大聖人
先生は正しい敬語を広めるため、誤った敬語を広めている人たちを相手の立場が自分と比較してどうかなど一切考慮することなく批判しまくります。
その姿は、さながら他の宗派を全て敵に回して我を信ぜよ!と豪語した日蓮大聖人を彷彿とさせます。
p.36 国語審議会のごまかし
国語審議会への批判です。国語審議会は国の機関です。
p.38 渋沢さん・柴田さんのウソ
渋沢さんとは渋沢秀雄のことで、渋沢栄一の四男で大実業家でありながら随筆から三味線までこなす風流人です。
柴田さんとは柴田武のことで、大学教授を歴任し、NHKテレビ『日本語再発見』にも出演していた先生です。敬語の本も出していて、いわば萩野先生の同業者です。
p.40 平成十二年のごまかし
「現代社会における敬意表現」のことで、文化庁が国の施策としてまとめたものです。
p.42 井出さんの錯覚
井出さんとは井出祥子のことで、日本語教育や語用論などを専門とする研究者です。
p.48 金田一さんの大錯覚
金田一さんとは金田一春彦のことで、辞典の監修も行う言わずと知れた権威です。
このように、相手が同業者であろうと国であろうと一切構わず、自分の信念を貫き通した人です。
私はそこに、男のロマンを感じます。
そしてそれは、萩野先生の師である時枝誠記氏への誠なのです。
かっこいいではありませんか。
■本有的文法
本有的文法とは、言ってみれば、誰にも教わっていないのに、勝手に出来上がっている文法のことです。
現在、ほぼ全ての国内にいる日本人は、義務教育で国語を習うでしょう。
しかし、義務教育が存在しなかった昔から、日本人はちゃんと日本語を使っていました。
例えば現在でも、「あれはおいしいよね」という言葉を「あれはおいしいねよ」と間違えることはありません。でも、皆さん、「ね」は「よ」の後に付くんですよ、などということを学校で教わったことはありませんよね。
今は、AIがはやりで、チャットボットが人間に代わって会話をしてくれます。ちゃんと会話ができるようになるためには、膨大な会話のデータを教師データとして読み込ませるわけです。
こう言われたらこのように答えなさいというプログラムを指定したのとは異なり、AIの中でどのようになっているかはブラックボックスです。
本有的文法とはこのブラックボックスですが、それをきっとこのようなプログラムだろうと学者が解釈したのが文法であり、わたしたちが学校で習ったのは、いくつもの候補の中から採用された一つの文法案でしかありません。
これは、日本語の一部である敬語にももちろん当てはまります。
ですから、このようにかっこいい萩野先生ではあっても、私の敬語講座では、萩野先生と全く同じことは教えていません。
それは、大きくは以下の2点です。
①美化語の扱い
萩野先生は、敬語の種類として、「尊敬語」と「謙譲語」と「丁寧語」を説明したうえで、このように述べています。
これで全部。あとはなにも特別のものはありません。(p.56)しかし、「ご飯」は尊い食事への尊敬語だと言われても、それは言葉の成り立ち・由来であって、用法ではありません。
萩野先生は、特に尊敬語と謙譲語について、敬意も認めません。
もちろん敬意そのものを否定しているわけではないのですが、ちょっと誤解を与えかねません。
敬語は道徳や人格とは関係がありません。(p.44)
敬意だの尊敬だのという感情とはまったく切り離して、単なる動詞の一つと考えることが大切です。(p.89)
敬語と尊敬という感情を切り離すのは同意しますが、敬意は必要だと思っています。
ただし、単なる動詞としてとらえる、つまり文法として考えるという側面があったほうが、敬語が理解しやすくなるのはもっともです。
このように、僭越ながら萩野先生に異を唱えておりますが、もちろん萩野先生の良さは、それを補って余りあります。
■萩野式の利点
①明快な説明
特に他の本では混乱しがちな尊敬語・謙譲語において、萩野先生の本では、これが非常に(非情に)明快です。
人間のなんらかの意味の上下関係の認識を表現する語彙の体系である(p.26)
下位者が上位者にものを渡す行為のことを日本語の動詞では「さしあげる」と言うから「さしあげる」と言う、とそれだけのことです。(p.89)
そして、ご自身で考案された「ハギノ式敬語しくみ図」が、更に視覚的にも分かりやすく敬語の表す上下関係を教えてくれます。敬語が苦手という方は、この「ハギノ式敬語しくみ図」をご覧になるためにも、一度先生の本をご一読ください。
ほかの人が示す敬語図と較べて、革命的に(!)簡便かつ正確なのですから、私は「特許ハギノ式」を自称しているくらいです。(p.80)
②敬語界のバランス
よく勘違いをしていると思われることがあるのですが、ただ一つの「正しい敬語がある」わけではありません。
言葉は十人十色なので、一つのことを表すのに色んな言い方があります。
例えば、上司に質問をしたいと思った何気ないときでも、数通りは簡単に思いつきます。
・ちょっと、よろしいでしょうか。
・今、ご質問してもいいですか。
・今、少しだけお時間よろしいですか。
・あのー、先ほどの件なんですが。
・お忙しいところ、申し訳ございません。
同様に、どのような状況でどのような敬語を使うかについても、人によって異なるのが当然なのです。
例えば、客に待っていてもらいたいときに何と言うのがよいでしょうか。
・少し、こちらでお待ちいただけますか。
・少々、お待ちくださいませ。
・よろしかったら、お待ちになりますか。
・少しお時間がかかりますが、お待ちになれますか。
色んな言い方がありますが、どれが正解ということはありません。
どの言葉が
状況に合っているか、
自分の言いたいことに合っているか、
を自分で選んで使うのです。
その中で、どうしても人によって選ぶ言葉は変わってきます。
敬語を研究している教授や研究者の間でも、です。
議論がまっとうに行われるためには、異なる視点が必要です。
現在の敬語の潮流が、「敬意」を重要視する流れに大きく傾いている中で、「上下判別語」といって潮流に逆らう立場が必要なのです。
私は不勉強にして萩野先生以上に現在の潮流に逆らう人を知りません。
萩野先生は既に他界されています。
これからの敬語が、何を言われようと批判をし続けてきたこの先生のいらっしゃらない中で、極端な方向へ暴走していくことのないように願います。
それでは、また。