ジェンダーと敬語~森氏発言に寄せて

ジェンダーとは、社会学において、生物学的な性別(男女)ではなく、社会的・文化的につくられる性別のことを指します。つまり、男らしさ・女らしさであったり、男たるものこうあらねばならない、女のくせにこんなことをしてはいけないという教育や偏見、そしてそれらがその人のアイデンティティにまで影響を及ぼしてしまうこともあります。

そこで今回は「ジェンダーと敬語」と銘打ってみましたが、これは女性らしい敬語の使い方、男性らしい敬語の使い方を云々しようというものではありません。

森氏の発言以来ジェンダーという問題がかなり取り上げられているので、敬語の考え方を使ってジェンダー問題を考えるとどうなるかという思考実験です。(まとまらずかなり長文になってしまいました。すいません。)

■免責

①たったここまでの文章を書いたところ、私は「男らしさ・女らしさ」と男を先に挙げておきながら、敬語の使い方については「女性らしい」を先に挙げました。まずは、このようにジェンダーに染まった人間が書いた記事であるということはご認識ください。

②昔はウーマンリブという言葉も流行りました。連綿と続くジェンダーの問題の詳細に深入りしてしまうと、ブログの範疇を超えてしまうと思うので、なるべく深入りしません。(しないように気を付けながら書きます)
また、話を複雑にしないために、女性蔑視に話を限りますが、実際にはさまざまなジェンダーがありますので、そこは適宜言葉を入れ替えてお読みください。
なお、女性への役割期待の一つである「母」については別のブログで取り上げたこちらの本が分かりやすいと思いますので、ご興味のある方はぜひご覧ください。

 

■敬語は良好な人間関係のために使う

敬語は誰かを立てるために使う言葉です。独り言で敬語を使う人はいません。

なぜ誰かを立てるのか、それによって相手と良い関係を築くことが目的です。(敬語を使うことで、より一層嫌みを強調するという使い方もありますが、それは本来の目的ではありません)

なので、この思考実験は女性を蔑視する男性とも良好な人間関係を築くということがゴールになるでしょう。

専制君主制の独裁者をギロチンにかけて自由を取り戻すということであれば敬語の出る幕はありません。また、森氏さえいなくなれば日本から女性蔑視発言が無くなるというなら、この問題は既に解決済みです。しかし、実際はそうではありません。

もちろん、女性だけを客として女性だけの会社を作り、男性との家庭も持たないということも可能ですし、それは十分選択肢になり得ると思います。
また、残念なことに、一部には近づくことで命の危険があるほどに女性を蔑視する男性がいることも事実です。そういう男性からは走って逃げるしかありません。

しかし、そこまでを望んでいる女性ばかりではないでしょうし、そこまで極端な男性ばかりでもないでしょう。
森氏に端を発し、男性が世の中から消えていなくなればいいと考えているのでなければ、対立を避けるだけでなく、多かれ少なかれ今も女性蔑視を継続して行う男性諸氏ともなるべくならば良好な人間関係を築くことを目指したいところです。

■敬語は相互尊重のために使う

日本の敬語は相対敬語です。

どんな偉い人でも、絶対的に偉い人間がいるのではなく、今は立場上偉いだけに過ぎません。
今は私がへりくだりお客さまを立てたとしても、私がお客さまの立場になれば、昨日は立てた相手から今日は立ててもらうこともある。
上司と部下の関係も同じです。

だから、例えば客だから、部下だからといって相手をどこまでも下に見るのではなく、一定の尊重が求められます。

そこから考えれば、女性蔑視を今も継続して行う男性諸氏がいたとしても一定の尊重は欠かせず、敬意を表すことが必要になります。

蔑視されるのが嫌で相手から敬意を得たいのであれば、なおさらです。

■敬語は距離を取る

女性を蔑視する男性に女性が敬意を払う必要はあるのでしょうか。

そもそも敬語が行っている尊重とは何のことでしょうか。
それは、別に相手をおだてたり、自分が卑屈になることではありません。

敬語が目指す良好な関係とはどのような関係でしょうか。
それは、相手と仲良しになることでもありません。

それは適切な距離を取ることです。

距離の取り方に三つあります。

①相手を上に見る
 相手が目上でない場合でも、必要以上に下に見てはいけない

②近づかない
 近づかなければ、相手を傷つけることもなければ、自分が傷つくこともない

③境界線を越えない
 英語で言えば、it's none of your business
 必要のないことを知ろうとしたり、相手の責任範囲に立ち入ろうとしない

どこぞの元大統領が他国の大統領の妻を評して、「体形が素晴らしい、美しいね」と言っていましたが、上記3点すべてに違反しています。
仕事が忙しいとき、上司である課長に向かって「これじゃ仕事が終わりません。部長にこんな仕事を押し付けないように言ってください。」と言ったなら、大概の会社では、①③に反します。(相手のできないことを言うのは失礼を越えて虐待です)

例えば同僚と上司と部下がいたとき、本来であれば敬語を使うのは上司、その次が部下、最後が同僚になります。部下は上下という距離があるので、もっとも敬語を使わなくてよいのは距離が近い同僚なのです。

そう考えると、考え方の違う相手と話す場合には、敬語が欠かせません。

■敬語は相手から見た人間関係を表現する

敬語にはいくつかの使い方がありますが、代表的な使い方としては、相手から見た人間関係を表現します。

上司のことを、別に偉いと思っていなくても敬語を使ううえでは一向にかまいません。「上司よ、あなたは私よりもあなたが偉いと思っていますよね。私はそう思っているあなたの認識を脅かしたりしません」という姿勢が持てれば、それで十分なのです。(もちろん、偉いと思える上司に恵まれているほうがいいことなのは間違いありません)

「森氏の発言はあってはならない」をスタートにしてしまったら、もうそこで関係性が途絶えてしまいます。「そういう考え方を持っていらっしゃるんですね」というところから始めれば、嫌がる女性を会長にすげかえて終わり、ではない発展があったかもしれません。

■敬語は権利と義務を明示し、責任を意識させる

敬語がその本領を発揮するのは組織などの集団です。

そこには上下関係があります。
上司は指示する権利があり、部下には従う義務があります。

「どうぞご指示ください」と部下が言うとき、「どのような指示であってもそれを否定する権利は私にはありません」という意味でもありますが、それは裏を返せば「その指示の責任は一重にあなたにあります」という意味でもあります。

「女性の管理職がこんなに少ないのはおかしい。25%に増やしなさい」と女性が指示するならば、その責任を女性は負えるのでしょうか

それは、企業の業績に責任が負えるかという意味ばかりではありません。男性と同じように働き、同じ収入が得られるということになったなら、男性が働かないという理由で離婚するのは難しくなるかもしれません。

このようなジェンダー問題を、他の国が決めた指標で判断し、歴史も文化も異なる外国に追いつくことを目標にしてしまっていいのでしょうか。

■敬語は建前を守り維持するために使う

「店」という場には「客にサービスを提供する」という建前があります。「店」に入ったからには、「客(サービスを利用し金を払う人、もしくはその可能性がある人)」とみなされます。

この建前があるから役割が明確になり、それに伴い使う敬語が自動的に決まります。

逆にいうと、この建前が適切でなければ、敬語は機能しません。

「女性のジェンダーが男性によって歪められている」

は女性から見たら正しいかもしれませんが、これをそのまま男性側の建前にするなら

「男性は女性のジェンダーを歪めないようにしなければならない」となり

男性が守りたいと思えるような建前になっていません。
(女性から見て正しい女性としてのジェンダーを男性が作らなければならないなどという建前は守ろうとしても守れません。そしてできないことを言うのは先述のとおり虐待です)

では、どうするか。敬語は距離を取ってお互いの安全を保とうとしますから、ここでも一歩下がってはどうでしょう。

「お互いのジェンダーについて一緒に考えませんか」

「女性蔑視発言を行うひどい男を責めること」ではなく「男性ジェンダーに支配された発言を考えること」が建前であれば、もっとこの建前に参加できる人は増えるのではないでしょうか。

元総理である方が最近の潮流を知らないわけはなく、立場や場をわきまえれば、腹の中でいくら思っていても口に出すようなことではなかったはずです。実際に辞任に追い込まれたことを考えると、ジェンダーで被害を受けているのは女性ばかりではありません。

■敬語は組織(集団)の中で機能する

敬語は、自分を守ると同時に集団を円滑に機能させるためのものです。

先ほど一歩引いた建前を「お互いの(つまり男性と女性の)ジェンダーについて一緒に考えませんか」としましたが、ジェンダー問題の母集団を日本とすれば、「日本のジェンダーの在り方について考える」ともっと引くことができます。

そうすると、ジェンダー問題を考えるときに男性と女性だけではいけないのかもしません。

私はジェンダー論にも現在の社会問題にも明るくはありませんが、もっとジェンダーのすき間に落っこちてしまった人や問題はないでしょうか。

■敬語は自律して使う

敬語はマニュアルに書かれている言葉をそのまま読み上げても敬意にはなりません。

今、自分が置かれている立場をわきまえ、今、自分にとって一番大切なものを決め、それに従って必要な人間関係を構築し、そのために自分を律するところから適切な敬語を選びます。

例えば、給料をもらうために働きたいのであれば、出てくる言葉は「働かせてください」「喜んでさせていただきます」です。
しかし、仕方ないから働いている、という意識のまま職場にいる人は「面倒くさい」「やりたくない」という気持ちが言葉でなくとも態度に出てしまうかもしれません。それを「面倒くそうございます」「やりたくはございません」と敬語にしても(文法的には正しくとも)敬意には程遠いのです。
問題は、「面倒くさい」「やりたくない」と思わないことではなく、それが今自分にとって必要な気持ちかどうかを自分で取捨選択できることです。

私が先に挙げた建前が誰にとっても適切かどうかは分かりません。多くの先人たちが議論し考えた経緯がある大きな問題ですから、私がほんの数時間で出した建前が適切だなどということはないでしょう。

ただ、どれだけマニュアル的に正しいことであろうと、世界的に認められたポリティカルコレクトネスであろうと、いや、表面上正しければ正しいほど、ただの受け売りになってしまい、ウーマンリブという言葉がすっかりすたれてしまったようにやがてはすたれてしまうただの流行り言葉で終わってしまうような気がするのです。

■依存から自立へ

最後に、敬語とは離れてしまいますが、一言。

私は、なぜかジェンダーの話を聞くと親離れのことを思ってしまいます。

世界には、男性と手をつないだところを見られて親に油をかけられて火をつけられるとか、女性は運転免許証が取れないとか、本人の力ではどうにもできないことで苦しんでいる人たちがいます。

一方で、日本では女性であろうと社長になれます。総合職で入社している人もいます。でも管理職における女性の比率が低い。
しかし聞くところでは、会社としてはなんとか女性管理職を増やそうとしているがなかなか増えないというところもあるようです。その状況で「女性が出世したいと思えないのはジェンダーとして社会的・文化的につくられたものだから、出世したいと思えるようにしてくれ」と言われてもそれは誰にとっても難しいと思われます。

それは、親の育て方が悪かったから私は苦しいと言って親を責めているのと変わらないように見えるのです。

自分の苦しみが親のせいだと分かるまでは親の責任かもしれませんが、親の育て方が悪かったと気づいた後の自分の人生は自分の責任ではないでしょうか。

同様に、自分のジェンダーが社会的・文化的につくられたものであり、それが自分を不幸にしているというなら、まずは自分のジェンダー観を見直したほうがいい。

私は決して日本における女性の地位が十分に高いとは思っていません。
女性に求められている役割は「母」と「便所」という上野千鶴子の言葉は今も大方当てはまると思いますし、レイプの慰謝料の相場がせいぜい100万円、下手をすれば20万円など、女性をバカにするのもほどがあると思っています。
離婚後、約束した養育費を払わない男性も多い一方、親権を争うと生活力のない女性が負けることも多い。
平成26年に検挙した配偶者(内縁関係を含む)間における殺人,傷害,暴行事件は5,807件であり,そのうち5,417件(93.3%)は女性が被害者です。(男女共同参画白書 平成27年版より引用・太字筆者)
社会の問題は山積しています。

それでも、自分の人生に責任を持つべきです。
女性だからできないと思っていることは本当にそうなのか。
自分の人生で優先すべきことは何なのか。

社会と何の関係もなく生きている人はいません。何かしら影響を受けています。そして自分もまた社会に影響を及ぼしています。

その社会には、欠点だらけの人間がひしめき合っています。

敬語は、すぐに我を張り人を傷つけても気づかない人間が、すぐに我を張り人を傷つけても気づかない人間とうまく折り合いをつける知恵です。

他者と関係を断つのではなく、依存するのでもなく、自立し共に生きる、そんな言葉が敬語だと思っています。

では、また。

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