敬語は公私と上下を区別して使う

テレビ番組を見ていて気になった。別にまじめな番組ではない。気軽に見て笑うような番組の話だ。

 

パーソナリティであるAは、「私には無理だ」というようなネガティブ発言をしていた。

 

そのとき、収録中のAに向かって、スタッフが話しかけたのだ。


スタッフ:最近、(Aさんを)見ていて、もっと自信もっていいのになって思ったんすよね。

 

A:は?

 

スタッフ:普通に面白いっすよ。

 

A:ありがとう。個人的には「ありがとう」だけど、「お前に言われたんだったら自信もってやります」とはならないから。

 

スタッフ:子どもとかインタビューするじゃないっすか。めっちゃ人気ありますよ、Aさん。

 

パーソナリティB:お前、どの次元でしゃべってんねん。

 

A:嬉しさは通り越えて、なぜか怒りが湧いてきた。 

 


あなたはこのやりとりをどう思うだろうか。

面白いやりとりだと思うだろうか。

 

この、Aとスタッフのやりとりが、漫才コンビとしての会話であれば、楽しく見られたかもしれない。

けれど、実際はそうではない。

 

Aの発したネガティブ発言は愚痴ではない。仕事だ

一方、スタッフの発言は明らかにスタッフとしてのそれではない。友達と交わされるべき私語だ。それがそもそもこのスタッフには分かっていない。

 

パーソナリティBがそれを「次元」が違うと指摘したが、その後、このスタッフは理解したのだろうか。

 

他のスタッフもこのやりとりを面白いと思えばこそ、カットせずに放送したのだろう。

 


 敬語は、距離を表現するために使うものである。

 

例えば、何度も飲みに行った同僚と話すにしても、会議中に話すのと、休憩中に話すのでは言葉遣いが変わって然るべきだ。

 

これを建前という。

 

■建前とは

 

建前とは、
「今、ここに皆が集まっている目的はなんなのか」
「そのために誰がどういう役割と責任を持っているのか」
ということを踏まえ、
考え方もよって立つ文化も異なる人たちが集まり、何かを成し遂げるための枠組みだ。

 

この枠組みに沿って敬語が選ばれる。

 

だから、正しい敬語を使っている人への評価は

「国語が得意ですね」ではなく

「この人は、周りの状況と、今自分が置かれている立場と責任をきちんとわきまえ、目的意識を持って行動している」ということになる。

 

■建前が守られなければ組織は混乱する

 

果たしてこのスタッフの言葉づかいは、

「~っすよ」「~っすか」と

まるで親しい先輩とでも話しているようだ。

 

パーソナリティAが独り言のように話していても、それは視聴者を意識しコンテンツとしての出来上がりを意識して話しているのに対し、このスタッフはただそのとき思ったことを口にしているだけだ。

 

単に文法が大切なのではない。共通のルールのもとにコミュニケーションを取らなければ、考え方や立場が異なる人に正確に物事を伝えることができないから、正確に物事を伝えることができなければ他者と協働して何かを行うことができないから文法が大切なのだ。

 

客観的に今の状況を見ることをせず、自分に期待されている役割のこと考慮しないなら、敬語は必要ないし、もし使ったとして文法的には正しくても意味のない敬語を使うことになる。 

 

他の番組では、高校生が40代の大人に向かって「素晴らしいですね」と発言し、会場が笑いに包まれたが、おそらく言った本人は自分が失礼なことを平気で言っているからみんなが笑ったとは思っていないだろう。

 

もしかすると、笑った大人たちも、意外な行為に笑っただけで、失礼なこととは思っていないかもしれない。

家に帰っても、親からそのことを教わることはないのかもしれない。

 

しかし、少なくとも日本において、ほめるとは評価することであり目上に対しては行えない

そんなことも分からず言いたいことを言うことが是とされるなら、組織は混乱する

 

敬語は、敬語を使うことを目的として使うものではない。

そんなことを考えながら、テレビを見ていた。

 

 それでは、また。


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