さて、今回取り上げる本は『こころの旅』(新曜社)です。
さて、今回取り上げる本は『こころの旅』(新曜社)です。
大学の教科書として使えそうな、専門書に分類される本かもしれませんが、それほど読みづらくはありません。
また、「こころの旅」と聞くと、私はチューリップを思い出しますが、ハリソンフォードの映画を思い出す人もいるかもしれません。
著者の山岸明子氏も、歌や映画や小説が好きらしく、コラムでは有名なそれらを引用して説明していて、とっつきづらい発達心理学を親しみやすくする工夫がされています。
この本では、生まれてから老年期まで、人の一生が書かれているので、子どもや孫ができた人だけでなく、自分のためにも読んでみてほしい本です。
その中でも、世の中の誤った敬語が気になる私の目が留まった箇所をご紹介したいと思います。
児童期の思考は内容の影響を受けてしまい、どのような場面にも形式的に適用可能ではない。たとえば「ネズミが犬よりも大きくて、犬の方が象より大きければ、ネズミと象ではどちらが大きいか」という問いに対して、具体的操作期の子どもは「ネズミ」と答えられない。形式論理的にはp>qでq>rであればp>rになるが、彼らは内容にとらわれてしまい、ネズミが犬より大きいという事態が受け入れられないし、「ネズミと象では象の方が大きいに決まっている」と考えてしまうのである。(p.80)
(ちなみに具体的操作期とは、ピアジェのいう、認知発達段階で、小学生の頃を指します。その後、形式的操作期が来て、抽象的思考ができるようになります。)
これを敬語に置き換えてみましょう。
たとえば「店員と客の二者がいるとき、地下一階食品売り場で海苔をお買い上げいただいたのは誰ですか」という問いに対して、多くの大人が「店員」と答えられない。形式論的には敬語は元の動詞に敬意が加わるのみで意味内容は変わらないが、彼らは内容にとらわれてしまい、「お買い上げ」という言葉と店員が結びつくという事態が受け入れられないし、「敬語を使う対象なら客に決まっている」と考えてしまうのである。
「お買い上げいただいた」を無敬語に戻すと「買ってもらった」です。
「子どもがお母さんにアイスを買ってもらった」などと使いますよね。
買ったのは母親、買ってもらったのが子どもです。
これはほぼ全ての大人が間違いなく答えられます。
また、店員と客の二者しかいないとしたときに「お客さまが海苔を買ってもらった」と表現するならば、「お客さまが(店員に)海苔を買ってもらった」ことになり、「海苔を買ったのは店員」ということになってしまいます。
このような表現をする店員はいませんが、敬語になったとたん、なぜか「お客さまが海苔をお買い上げいただいた」と言ってしまうのです。
これまでのことから考えると、敬語を使わない話し方が子どもっぽいと思われるには理由がありそうです。
内容と形式論を分けて考えることができない人には、自分の気持ちと、自分の役割を分けて考えることもできないとみなされるかもしれません。
内容と形式を分けて考えることは、一つの物事を異なる側面から見ることにもつながるでしょう。巷にはビジネスにおける有効な考え方を教える数多くの本がありますが、まずは敬語の使い方を学ぶことをビジネスのスタートラインにしてみるのはいかがでしょうか。