■お雑巾は正しいか
「お雑巾」について説明する前に、「おバカさん」について考えてみましょう。
敬語は、誰かを立てるために使います。しかし、中には誰かを立てるという目的には収まらないものもあります。
「はいはい、お偉いあなた様の言うとおりに致しましょ」というような嫌みとして使う敬語も一つありますが、今回取り上げるのは、美化語です。
美化語とは、ものごとを美化して述べる敬語の一つです。
居酒屋で連れに向かって「お酒でもいかがですか」と言う場合、この酒は自分のものでもなければ連れのものでもないわけですから、連れを立てる目的には合いません。そうは言っても、立てるべき人と一緒にいるときのほうが、美化語が使われやすくなる傾向はあります。
自分の社長に向かって「酒でもいかがですか」とは言いづらいですよね。
一方、独り言でも「あっ、お財布忘れちゃった」と言う人は、人前でも「私のお財布がない!」と言うかもしれません。この場合、自分を高めようという意図はありません。しかし、自分を高めようとしていると思われかねないこのような美化語は、目上の人の前やかしこまった場では控えられます。
この美化語ですが、以前は「です」「ます」のような丁寧語の中の小分類として扱われていました。しかし、丁寧語はあくまで聞き手を立てるものであるのに対し、美化語には人を立てる機能がないという決定的な違いがあるので、独立して扱われることになりました。(『敬語の指針』P.21を参照)
言ってみれば、人を立てる以外の機能を持つ敬語を、美化語と考えればよいでしょう。
※以前の記事『「お」や「ご」を付ければ丁寧語になるのか』でも少し触れておりますので、よろしければご覧ください
■美化語は文化・風習により大きく異なる
もちろん、言葉に「お」を付ければ、なんでもかんでも美化語になるものではありません。公共物である道路や信号に”お”を付けて「お道路」「お信号」と言うのは、少々みっともないものです。
しかし、では美化語にできるものとできないものの明確な基準があるかと言えば、残念ながらありません。
最終的には、その土地、その家庭の文化・風習によるとしか言いようがないのです。
例えば、わが家では「お大根」「お芋さん」などと言いますが、「お人参」「おかぶさん」とは言いません。もし「ウチでは”お人参””おかぶさん”と言っていましたが間違いですか?」と聞かれたら、「そう言っていたのでしたらどうぞお使いください」と答えざるを得ません。
さて今回、読者の方から「お雑巾」という言い方が気になるがこれは正しい使い方なのかとのご質問を頂戴しました。
「お雑巾」も文化・風習であり、「お人参」と同様「そう言っていたのでしたらどうぞお使いください」と言ってしまえばそれまでですが、せっかくご質問を頂戴したので、もう少し説明をさせてください。
敬語は一般的に人を立てるときに使います。
それでは「おバカさん」は誰を立てているのでしょうか。
形に目を向ければ、「お父さん」「お客さん」「お医者さん」と同じです。しかし、その3つが主語にでき、「お父さんがなさいます」「お客さんが見えてます」「お医者さんがおっしゃった」などと敬語とともに使えるのに対し、「おバカさんがなさいます」とは言えません。敬語を外して「おバカさんがやります」ですら不自然です。
「おバカさん」を使って文を作るなら、「もう、おバカさんね」はいかがでしょうか。これなら自然ですよね。
文法的に言えば、「おバカさん」は名詞としか言えませんが、上記から見れば、まるで形容詞です。
他にも、美化語の例として、汚い話で恐縮ですが(食事中ではないですよね?)トイレを「おトイレ」、小便を「おしっこ」「お小水」ともいいます。古い人なら、「おトイレ」ではなく「御不浄」です。
お天道様、お星様ならまだしも、汚いと分かりきっているものに「お」を付け、はたまた「不浄」そのものに「御」を付けるとはどういうことでしょうか。
実は、「お」や「ご」や「御」を言葉に付けるのは、今で言えば絵文字で✨を付けるようなものです。ついでに😊も付けておきましょうか。
「おトイレ」は ✨トイレ😊
「おバカさん」 ✨バカ😊
そして、「お雑巾」は
✨雑巾😊。
通常の敬語が、ゼロのものをプラスにする使い方だとすれば、ここで紹介しているのは、マイナスのものを少しでもゼロに近づけるための使い方です。
人が嫌がるものに、かえって「お」や「ご」を付けることで、受け入れようとする人間の知恵が見えてきませんか?
このような使い方は他にもあります。
「お疲れさん」
「お疲れさまでした」
こんなあいさつが職場ではよく交わされます。
人生は楽しいことばかりではありません。でも自分では望まない嫌なことやつらいことを乗り越えるからこそ、成長があり、幸せもある、そう思いたいではありませんか。
そんな思いが詰まった言葉が「お疲れさまでした」や「ご愁傷様です」だと思うのです。
このように、上下を表す文法ガチガチの敬語とは少し趣の異なる美化語を知って、より敬語に興味を持ってもらえれば幸いです。
そうは言っても、「お遅刻」や「おクレーム」など勝手に敬語を作ることはお勧めしませんので、悪しからず。
では、また。