読者の方から、ご質問を頂戴しました。
とあるラジオのパーソナリティが、「今日のメッセージテーマは、●●にちなませていただいて決めました」と毎週言っているが、この言い方はおかしくないだろうか、と気になるということです。
今回は、このご質問にお答えします。
■誰がちなむのか?
この使われ方の問題の敬語を使う上で最も根本的な、その行為を誰が行っているのか、を考えていないということです。
なぜなら、
敬語とは、誰かを立てるために使われる
ものだからです。
この誰かとは、立てたい人であれば誰でもいいわけで、発話者が決めることではありますが、少なくとも人間でなければなりません。
「私がちなみました」
「彼はちなみませんでした」
「みんな、もっとちなみなさい」
こんな会話が成り立つでしょうか。
会話としても成立しませんし、どの一文をとっても正しい文にはなっていません。
質問を下さった方が、気になるのは、真っ当な感覚です。
人の行為でないものは敬語にはなりません。
文字で書くと、敬語を知らない人からしても当たり前の文章になると思うのですが、それでもこのような間違った使い方がされるのはなぜでしょうか。
それは、とりあえず「いただく」を付けておけば丁寧に聞こえる、という意識があるだと思います。
■「いただく」の氾濫と「あたかも敬語」
このように「いただく」が誤って使われるようになった背景には、「いただく」の使用方法が本来難しいということに加え、某教授が、「あたかも依頼表現」と「あたかも許可求め表現」を広めたことがあります。
※この2つの言葉を私なりに説明すると下記になります。小見出しの「あたかも敬語」とは、私が今、勝手に作った造語で、「あたかも依頼表現」と「あたかも許可求め表現」をまとめて指しています。
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「あたかも依頼表現」=本当は命令なのに、依頼しているかのように表現すること
例)ご返品はお受けいたしかねますので、ご了承いただけますか例)お調べしますので、電話を保留にさせていただけますか?
”あたかも”敬意があるかのように振る舞えと教授が堂々と教えているのです。しかもこの教授は日本人にも外国人にも教えています。
私に言わせれば、本当は許可を必要としていないのに許可を求めるふりをするのは、敬意とは真逆の行為です。本当は命令なのに、依頼しているかのように表現することも同じです。
さらには、行動につながる言語表現(=行動展開表現といいます)のほぼ全てがこの2つに収れんされるとも言っています。
つまり、相手の行為は「~していただけますか」、自分の行為は「~させていただけますか?」と言えば、大概のことは収まるということです。
ここにおいて「お持ちになる」、「お持ちする」という最も基本的な敬語すら使う必要はなくなり、「お待ち願えますか?」「お待ち申し上げます」などのバリエーションは非効率的なものとして忘れ去られ、「いただく」ひとつあれば、「お持ちいただけますか?」「お持ちさせていただけますか?」で会話は成立することになってしまいました。
もう、ややこしい敬語を理解する必要はありません。
かくて「いただく依存症」と私が呼ぶ現象が、日本中を覆っています。
件の教授は、いただくが氾濫しているこの状況を見て、批判するやつもいるが実際にこれだけ広まっているじゃないか、という主旨のことを言っていました。
■いただくを安易に使わない
「いただく」が使いこなせれば敬語上級者とも言われます。
楽をするための敬語なら、いっそ使わないほうがよい。
私はそう思って、敬語を基礎から教えています。
そこで名前も「敬意を込めて敬語を使うための敬語教室」としました。
したがって、「あたかも敬語」を私は是としません。
振りをするだけで意味のない言葉なら、何に付けてもいいじゃないかということで、ご質問の「ちなませていただいて」が生まれたと想像します。
国語学者の萩野 貞樹は、「いただく」はほぼ間違って使われているとして「いただく」を使わないよう、呼びかけていました。
皆さまもどうぞご注意ください。
それでは、また。