人に敬語を使うことがムカつくなら、 もっと敬語を使ってみよう

   言語以外の要素に注意を向けない人は、

   真の意味で敬語を習得することはできない。

   (『バカ丁寧化する日本語』野口恵子p.71)

ちょっと今日は、敬語について、大風呂敷を広げてみようと思う。

■行動には、目的がある

敬語はもちろん文法である。
しかし、正しく文法を使いこなすことが正しい敬語を使いこなすこととは限らない。

何のために敬語を使うのか、その目的を果たすために文法があり、敬語があるのだ。そして、その目的は、自分で定めなければならない。
テストで100点を取るための敬語学習と、上司にゴマをするための敬語学習では中身が異なってしかるべきであろう。
とはいえ、私は敬語を使う目的をそんなところに置いてほしいと思っているわけではない。

■それは自分の目的になっているか

たとえば、「上司から、敬語を使うよう指示されたから敬語を使う」ということもあるだろう。

最初は誰もそんなものかもしれない。
けれど、いつまでもそのような意識で敬語を使っていたら、敬意のこもらない、単なる言葉の無駄遣いに過ぎなくなってしまう。そんな敬語なら効率化の名のもとにいつか消えてしまうだろう。(既に現在、非常に単純な「敬語を使っていますよ」とアピールをする目的のみの敬語になりかかっている)

そして、敬語とは、確固とした自分を持ちつつ他を立てる言葉の使い方であるから、こと敬語に限った話ではないのだ。

そういう意味では、仕事に行かないのは恥ずかしいからと親に言われて、嫌々ながら会社に行っている人がいるとしたら、その人が”真の意味で敬語を習得すること”は難しいかもしれない。

■人事を尽くして天命を待つ

敬語は、尊敬できる相手にだけ使うものではない。初めて会った知らない人や、目上のように自分の知らない情報を持っている人など、よく分からないものへの畏怖も含まれる。
世界を知り尽くすことなど到底できない一介の人間が、世界をあってあるものとして受け入れ、今自分がいる世界を主体的に、そして世界と関わり合いながら生きる

世界をあってあるものとして受け入れる言葉が主体尊敬(動詞でいえばその行為主体を立てる言葉)、世界と関わり合いながら主体的に生きる言葉が受け手尊敬(同じく動詞でいえば、行為の向かう先を立てる言葉)だ。
だから、「今の状況は●●のせいだ」「こんなはずじゃなかったのに」「なんで自分だけがこんな目に」などと思っている人は、誰かに振り回される人生を生きているので、主体尊敬も受け手尊敬も使えないことになる。

この考え方に近い言葉を探すなら、人事を尽くして天命を待つという言葉だろうか。

■自分の心は思いどおりにならなくても、言葉は変えられる

「そんなこと言ったって」「ほかのやつは恵まれてるんだ」そんなふうにしか考えられないときもある。
実際に、ほかのやつのほうが恵まれているかもしれない。
それでも、それならばなおさら、誰かに振り回される人生をやめよう。それには主体的に生きるしかない。

だから、最初は形からでも構わない。正しい敬語を使ってみよう。
きっと、心と言葉が食い違ってもやもやするだろう。
くそっ、なんでこんなやつに敬語なんか使わなきゃならないんだ!
そう思いながらで大いに結構だ。
そして、なんでなのか、考え続けてほしい。
自分の心の中にしか、答えはないのだから。
もやもやは、その答えへと導いてくれる大切なヒントだ。
だから、もやもやから目を逸らさずに見つめてあげてほしい。

くそっ!
あいつめ!
こいつめ!

もやもやの中から、そんな思いが聞こえてきたら、それも大切なヒントだ。
そんなアイツやコイツに正攻法では勝てないと分かると、今度は相手をバカにしたくなったりもする。

そんなときには、敬語を使っているはずが、口調や態度が伴わず嫌みになっている

それも、人に振り回されているサインだ。自尊心を保とうと必死になっている状態だ。

また、「どうせこれは指示されてやっているだけの仕事、やってやっているのさ。」
そんなふうに思っていれば、強がっているつもりでも責任が負えず、いざとなると「です」「ます」と言い切れない。婉曲表現に逃げてしまう。

そんなときは、充実とは程遠い、空っぽの時間を過ごしていることから目を逸らそうとしているのではないかと振り返ろう。

■出発点は自分

人は自分が一番かわいい。
自分の中の幸せがあふれた分でしか、人を幸せにできない。自分を削って人を幸せにしようとしたら、いつか自分が壊れてしまう。

誰かにその不満を満たしてもらい、恐れを取り除いてもらおうと期待すれば、その人の機嫌を取りながら、また、その人に依存しながら生きることになる。そんな敬語の使い方を私は勧めない。

また、自分は不満など抱いていないと否認すれば、その不満をもたらす相手を避けてしまうかもしれない。隠したはずの不満を刺激してその存在に気づかせる対象を攻撃することもある。
同じ不満を持つ者同士がいつの間にか引き寄せられているのは、人間の生きる本能かもしれないが、もしかすると、それは不満に操られてはいないだろうか。逆にそんな不満はひとかけらも持っていないとうそぶく相手に引き寄せられることもある。それは本当に自分が選んだ距離なのだろうか。

そうではなく、その不満や恐れを自分の一部として受け入れ、不満や恐れの陰で小さくなっている夢や希望も同じように受け入れ、自分の丸ごと全てで自分の人生を作り上げていくことが、真に敬語を使うことにつながる。
自分を受け入れられない人は他者を受け入れることも難しいし、自分の人生に責任を持てない人が自分の行動に責任を持てるとは考えづらい。

■言葉は一面しか表せない

大風呂敷を広げたはいいが、伝えたいことを言葉にしようと思っても、本当に伝えたいことはうまく言葉にできない。一面を言えば、反対側の一面がこぼれ落ちていくような気がする。

そもそも「人事を尽くして……」などとカッコイイことを言っても、私自身が程遠い。私には、自分を省みる鏡として、自分を導く羅針盤としての敬語がこれからも必要だ。

私の言いたいことがどれだけ言葉にできたか、まことに心もとないが、いったん筆を置こう。

それでは、また。