無差別殺人に対して敬語にできることはあるか~京王線刺傷放火事件に思う

今回、4,000字超えの長文です。すみません。

■京王線刺傷放火事件 

去る十月三十一日、京王線内で火を放ち、刃物で人を襲う事件が発生した。被害に遭った人は、どれだけ恐ろしい思いをしたことか。車両の奥に炎が見え、逃げ惑う人々の映像は、画面を通してでもその恐怖を伝えた。

一方、男は、人を殺して死刑になりたかったと供述しているそうだ。なんともやりきれない。

それと同時に、私はこの映像を見ながら、「また起きた」と思った。

それは、私だけではないだろう。

 

■死刑になりたい~『無差別殺傷事犯に関する研究

無差別殺傷事犯に関する研究』が法務省によって2013年に行われている。
※以下引用文の太字はすべて引用者

・一般殺人の特徴

昭和29年の3,081件がピーク(p.6)』
『男女別では、男子が多いものの、女子の比率も平成 23年において24.5%に及んでいる(p.7)』。
面識のない相手に対する殺人事件の比率は10%強と低い水 準である(同)』

・無差別殺傷事犯の特徴と動機(調査対象52人)

『一人を除いて全員が男性(p.39)』
年齢層が低い者の割合が高い(同)』
『ほとんどは異性との婚姻・交際関係が消滅(p.43)』
『年別の発生状況については、特に増減に関する傾向はない(p.52)』

一般殺人が以前より減少しており、4分の1とはいえ女性も含まれるのに対し、無差別殺傷事犯については、ほぼ全員が男性であり、時代による傾向がみられれないことが分かる。

・動機(p.57)

Ⅰ「自己の境遇へ の不満」
Ⅱ「特定の者への不満」
Ⅲ「自殺・死刑願望
Ⅳ「刑務所への逃避」
Ⅴ「殺 人への興味・欲求」

今回の事件では死刑願望を明確に口にしているので、Ⅲについてもう少し見てみよう。

・Ⅲ「自殺・死刑願望」の概観

『犯行半年以内に自殺企図(p.143)』
生活上の行き詰ま り(p.144)』
支持的な雰囲気に乏しい家庭環境の下で 生育している(同)』

上記を踏まえ、研究者は以下の提言をしている。

・無差別殺人を防ぐために

『孤立した上で偏った思考等が先鋭化し無差別殺傷事犯に至っており、 孤立を防ぐこと(中略)社会における「居場所」と「出番」を作ることが大事である(p.182)』
『少年・若年者に対する自殺防止策を推進することが無差別殺傷事犯の防止にも資 する(p.183)』

■考察

素人考えなので、何をかいわんやと笑われてしまうかもしれないが、ここからは私の考えを述べさせてもらおう。

・ジェンダーかセックスか

無差別殺傷事犯の犯人のほぼ全てが男性であり、年による傾向が見られないならば、それはジェンダーの問題なのだろうかという疑問が起こる。

昨今ジェンダーフリー、SDGs、など耳当たりのよい言葉が叫ばれている。ジェンダーフリーが100%実現したわけではないにせよ、少しは社会に変化を与えているだろう。それにもかかわらず、年による傾向が見られないのはなぜか。

その恩恵を受けているのは一貫して女性のみであり、男性に関してはその社会的偏見にとらわれたまま何も解放されていないという見方もできる

しかし、男性も育休を取れるようになりはじめ、また、あまり良い話ではないが、非正規雇用の拡大により正社員でなければ一人前の男ではないという偏見も減っているのではないだろうか。
また、若者の間では男性と女性という性別があっても、一緒に飲み食いしたなら割り勘が当たり前で、女性だからおごってもらうという感覚はないという話も聞いた。

もし、ジェンダーフリーが多少なりとも進んでいるにも関わらず、男性だけが無差別殺人を犯す傾向に変化がないとしたならば、それはジェンダーではなくセックス(肉体的な性別)の問題であるという見方もできよう

私の実感として言えば、女性のほうが自分の感情にアクセスしやすいし、自分の感情を言語化しやすいと思う。例えば「保育園落ちた日本死ね」という言葉が、自分の感情を吐き出すことに成功している場合、アクティングアウト行動化をしなくて済む。会ったこともない人のことを勝手に推測するならば、言語化がきちんとできる人は、自分の置かれた不幸な状況を見つめ、嫌なものは嫌なものとして受け入れることができる。(「死ね」という言葉を使いつつも、このブログを書いた人が無差別殺人に走るとは誰も思わないし、そんなことは実際にしなかった)
だから、多くの人が共感した。

それに対し、旧態依然とした男性社会に生きる政治家の言葉には、自分の感情へのアクセスをきっぱりと遮断した、目的を達成するためだけの言葉のように聞こえる人が多い。野党は相手を尊重したら負けというルールがあるかのように揚げ足取りに熱心で、与党はいかにそれらと向き合わないかを競うかのように見える。それは、人と人が影響を受け合い及ぼし合うコミュニケーションとは真逆の言葉だ。自分は一切変わらない、鉄壁の鎧のような言葉。この目的を達成できなければ自分の(もしくは国民の)幸せはないとばかりに目的だけを見つめるならば、いつの間にか肝心の国民から目を逸らしているということにもなりかねない。たとえ目的を達成してもその後は、「俺のやったことは正しかったんだ」という思いに縋り付くしかない。それは、幸せだと思い込もうとすることではないだろうか。それは、自分の感情を見まいとする行為ではなかろうか。そこに幸せはあるのだろうか。
政治家であるならば、その場の批判に振り回されず目的を達成する能力は必要なのかもしれない。支持を集めるための武器として共感を呼ぶような言葉を使うのはよくても、いちいち本当に共感して揺らいでいたら政治が何も進まないかもしれない。
本当にそうだろうか。

この犯人は、同様に自分で目的を決めて突っ走ってしまったわけだが、その目的があまりにも残酷だった。それは人を不幸のどん底に突き落とす行為であり、自分を幸せにする行為とも程遠い。それを私は、自分の感情へのアクセスができず、適切に言語化することができなかったことが原因の一つではないかと考えている。政治家は戦略的に強い意志でもって自分の感情へのアクセスを表に出さないように振る舞っているのかもしれないが、犯人はきっとできなかった人間であろう。

では、自分の感情を言語化できないとどうなるか。

・人はトークンを欲しがる

ここで言っているトークンは、デジタルマネーのことや、プログラミング言語における最小単位の言葉を指しているわけではない。

行動心理学における、”ご褒美”のようなものだが、私流に言ってみれば、行動への他者からの反応を指す。
人は、このトークンを集めたがる。

例えば、ごみを拾って「ありがとう」と言ってもらった反応が嬉しければ、その人はもっとごみを拾うようになる。
このように、通常は良い反応を求めて人は動くのだが、全く良い反応がもらえない場合、悪い反応でもよいから人は求める。
さらに例を挙げれば、今まではごみを拾うとお母さんから「ありがとう」と言われていたのに、妹ができてお母さんは妹しか見ておらず、ごみを拾っても「ありがとう」と言ってくれないとき、最初はもっとごみを拾って「ありがとう」と言ってもらおうとするが、それが効果がないと気付くと、今度はごみ箱をひっくり返して「何やってるの!そんなことしちゃダメでしょ!!」という反応でもよいから集めようとする、というようなものである。

本来であれば大人になるまでの間に、そういう経験の中から、自分はお母さんに構ってもらえなくてさみしいという気持ちに気づき、それを母親に話して分かってもらうというような、行動ではなく言語によるコミュニケーションスキルを身に付けなければならない。しかし、そのようなスキルを持たないまま叱ってくれるお母さんとの関係も消えてしまったとしたらどうなるか

『無差別殺傷事犯に関する研究』では孤立が原因の一つだという。

それならば、誰からも反応がもらえなくても、法を破ることによって、警察がかまってくれる。新聞もテレビもSNSもみんな自分に反応してくれるではないか。
犯人は、自分でも気づいていないかもしれないが、人を殺したかったのではなく、これが欲しかったのではないだろうか。

そして、『無差別殺傷事犯に関する研究』が述べているもう一つの契機は自殺企図である。

・人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい

これは、聖書の言葉(マタイによる福音書7:12)だ。

敬意とは、自分がされたくないことを人にせず、自分が扱われたいように人を扱うことから始まる。しかし、死刑になりたい者にとって人の命は軽い。自分が扱われたいように人を扱うなら、それは”殺してあげる”ということにつながる。敬意の前提には、健全な自尊心が必要なのだ。それがこの容疑者には欠けていたのだろう。

では、健全な自尊心とは何か。自分を幸せにしようとする意志ではあるまいか。学歴、財産、地位、美貌など、人に自慢できるものを持っているからといって自尊心が育まれるとは限らない。ほめそやされるためには、ほめそやす人が必要だ。そんなものは、時にあっけなく消え去る。
念のために言い換えれば、自分を幸せにしようとすることは、学歴や財産を集めることではない。それらは、幸せになるための手段ではあるかもしれないが、幸せそのものではない。

ならば、敬語にできることはあるのか。

■敬語には何ができるか

敬語は、ほめそやすこととも違うし、ほめそやされることを求めない。自分を叱る人にも、自分に指示命令する人にも使う。場合によっては、いくら罵られても頭を下げ敬語を使い続ける。

それは、否定される苦痛よりも己を成長させることを選び、働く苦労をいとうよりも皆で得られる成果を求め、相手の欠点や感情の波をも含めて人とのご縁に感謝することだ。自分を幸せにしようと思ったら、自分一人ではできないと知ることが敬意につながる。

さらに敬語には、人の自尊心を守る機能がある。人と共同作業を行うためには、信頼関係がないよりあったほうがいい。そして、健全な自尊心のある人とのほうが信頼関係は築きやすい。
「自分なんか駄目だ」「どうせこいつも自分のことを嫌っている」「自分なんかどうなったって構わない」と考えている人と信頼関係を築くのは至難の業だ。

そして残念なことに、この自尊心は勝手には育たない。あったはずの自尊心を見失いそうになるときもある。
だから敬語は、自分を尊重してくれる人や自分が尊敬する人に使うだけでなく、自分を尊重しているようには思えない人にも、自分には尊敬できないと思う人にも、できる範囲で構わないから使ってほしい。一言一言の持つ力は微々たるものかもしれないが、多くの人が使えば、一定の力になる。それは、あなたにも幸せになってほしいというメッセージだ。そのメッセージは、受け取った人の自尊心をはぐくむための栄養になるだろう

それでは、また。

コメント: 0