最近あまり耳にしませんが、「わたし的にはぁ~」という話し方がはやった時期がありましたね。
「わたし的にはぁ、こういうのって、あんまりっていうかぁ、どっちかっていうとぉ、好きくないかなぁ~」というような話し方です。
こんなふうに言われたら、ムカッとしますか?
それとも可愛いと思いますか?
おそらく両方とも同じ要素への反応であり、それは
大人としての責任ある態度ではない
ということです。
語尾を伸ばして甘ったるく話すなど、子どもっぽい要素も例に入れましたが、子どもは「ワタシ的には」などとは言いません。より積極的に、責任を回避しているのです。
敬語とは、婉曲表現である
敬語とは、婉曲表現です。
立てるべき人の行為をあたかも行為でないかのように表現し、名指しを避けるため敬語を使うことで主語をあえて省略します。
それは、曖昧に表現することで、自身が立てたいと思う人を責めず、自尊心を守ってあげるためです。
だから敬語を、
「お待ちになっている」は尊敬語で、
謙譲語なら「お待ちする」と言うのだ、
などと言葉の上だけに限定してしまうと敬語の本質を見誤ることになりかねません。
また、婉曲表現ならなんでも敬語になるかといえば、それも違います。あくまでも、立てるべき人のために婉曲に表現するのです。
婉曲表現を自分のために使うなら、それは自敬表現です。
自敬表現とは何か
自敬表現とは、字のごとく話者が自らを敬う(=立てる)表現のことです。
「俺様敬語」とでもいえば、分かりやすいでしょうか。
「私がおっしゃるから、皆、拝聴するように。」と言えば、さすがに周りもおかしいと思うでしょう。ここまであからさまなことを言う人はなかなかいません。
しかし、敬語を使わなくても自敬表現はできます。
上述のように、立てることの本質は婉曲表現なので、自分のために婉曲表現を使うなら、それは自敬表現になるのです。
敬語を使わない敬意表現
例えば喫茶店で、客がコーヒーカップをひっくり返してしまったとき、
「コーヒーがこぼれてしまいましたね。お召し物は大丈夫ですか?」と
客がコーヒーをこぼしたことに触れずに表現するならば、それは客への敬意表現です。※実際にはこぼれてしまったことそのものを表現せず、客の服は汚れなかったか、やけどなどけがをしなかったかだけに注目する
一方で、コーヒーが勝手にこぼれるなどということはあり得ないはずですが、客が
「店員さん、コーヒーがこぼれちゃったんですけど!」
と呼ぶなら、それは本人が意識しているかどうかにかかわらず、自敬表現なのです。
婉曲表現としての「的」
「わたしは」と言わず、あえて「わたし的には」と表現することで、人ごとのような印象を与えます。
また、あえて「わたし的には」という主語を選ぶことに加え「A案に賛成です」と断言せず「A案かなぁと……」と判断を濁すことで、よりその効果は高まります。
そもそも出身地や年齢など、本人の判断と関係ないことについて
「わたし的にはぁ、東京出身っていうかぁ」
「わたし的にはぁ、24歳かなぁ」
とは使いません。
「わたし的には」と人ごとのように、そして判断を濁した発言であれば、「わたしはやっぱりB案かもしれませんね~」といつでも前言を撤回できます。
このように、自分の責任を明確にせず、常に自分を責められない位置に置こうとする自敬の姿勢が、人をムカつかせるのです。
それでは、また。