自然を畏れ、和を貴ぶ~2022年の初めに

新たな年の始まりです。

皆さんは、どんな一年にしたいですか。
新年初回の今回は、少し大きな話をしてみたいと思います。

以和為貴

聖徳太子の説いた「以和為貴(和を以って貴しと為す)」といえば、敬語の目指すところとして多くの人が納得してくれるのではないでしょうか。

それは、決して烏合の衆になれということでもなければ、強い者に唯々諾々と従えということでもありません。
そもそも同じ考えを持っているなら和を強調する意味もありません。
価値観も考え方も異なる人が集まる中での和が難しいことかが分かっていて、かつ、それでも一番大切なこととして十七条憲法の第一条に持ってきたと考えるのが自然です。

それならば、多様性が求められる今、まさに必要な規範と言えます。

もちろん現在使われている敬語を、飛鳥時代の太子らが使っていたわけではありません。敬語そのものも敬語の使い方も大きく変わってはいますが、それでも敬語には日本の心が詰まっていると思います。

「なる」に含まれる大いなる自然への畏敬

例えばファミコン言葉(ファミレスやコンビニでよく使われるおかしな言葉遣い)の代表として、「コーヒーになります」という言葉があります。

持ってきている間にコーヒーへと変化したわけではないので、もちろん間違っています。しかし、それならばなぜこのような言葉を選び、それが広まり、しかも定着してしまうのでしょうか。

そこには、「なる」という言葉が自然現象を指すときの表現であり、自然の前に人間はひれ伏すしかないというアニミズムの精神が通底しています。

桜が咲いても嵐が来ても、富士山が夕焼けで赤く染まろうとも雪が積もって白く塗り上げられようとも、それを自然のありのままの姿として受け入れ尊ぶ、その心を老いも若きもが共有しているからこそ、「コーヒーになります」が言葉として通用し、コミュニケーションが成立するのです。

ここに私は言葉の持つ力を感じます。

力を正しい方向へ

ただし、それを傍観しているわけにはいきません。方向性が間違っているからです。

「なる」を使った言葉で表現され、受け入れられ尊ばれなければならないのは「お飲みになる」客であって給仕する側ではありません。

言葉の力が生きていればこそ、その中でも人間関係を表す敬語を正すことによって、人が幸せになり、良い社会になりうるのではないか。人の絆が試されている今、そんな希望を抱えながら、今年も言葉を紡いでいこうと思います。

本年も、どうぞよろしくお願いいたします。

では、また。