日本語とは牡蠣フライ定食である

ちょっと今回は、敬語の枠を越えて、日本語について書いてみようと思います。

勉強というよりは、軽い読み物としてご覧ください。

「牡蠣フライ定食」の特徴

牡蠣フライ定食には、日本語の特徴がよく表れています。

 

「牡蠣」は中国語。

「フライ」は英語。

「定食」は、中国語に見えるが和製。

 

そうして出来上がった「牡蠣フライ定食」は紛れもなく日本語です。

 

出てきた皿を見てみれば、ポテトサラダや赤いスパゲティなど、さらに国際色が豊かさを増すかもしれません。

ジャーマンポテトが載っていようと、フレンチドレッシングがかかっていようと、そこに「ご飯」があれば、それは日本の「定食」と言えるのではないでしょうか。

日本語は他言語を吸収してできている

天ぷら、背広、合羽など、元は外国語といわれている言葉が日本語には多くあります。そして、そのような言葉がすっかり日本語として定着しています。言葉が定着しているということは、その文化も、(日本流にアレンジを加えながら)定着しているということです。

 

逆に、哲学、理想、など中国語のように見える日本語や、ブラインドタッチ、シャープペンシルのように英語のように見える日本語も多数あります。

 

”外国語っぽい”日本語を作るにしても、そこにはどの外国語を使うかという選択によって加えられるニュアンスがあります。「ブラインドタッチ」を漢字にすれば「盲触」と表記できるかもしれませんが、言葉から受ける印象は大きく異なります。

この印象の違いを大切にし、使いこなすのが日本語です。

 

文字については、日本はもともと独自の文字を持ち合わせていなかったそうです。そんな日本が、中国から伝わった漢字を吸収し、吸収するだけでなく平仮名や片仮名へと変化させて、豊かな文字表現の世界を創り出しました。

 

この文字の多様性が、どんな国の言葉も受け入れてしまう柔軟性につながったのでしょう。

内側に世界を作る

その柔軟性は、自らを変えていく力のように思われます。

 

「kaizen」「kawaii」など世界に広まった言葉もあれば、トヨタ、ユニクロなど世界を股にかける企業もたくさんあります。

 

そういうグローバルな日本人もたくさんいるのですが、別に世界に広がらなくてもいい、股にかけなくてもいい、それよりも日本を日本のまま世界化したいというのが、一般的な日本人の感覚であるような気がしています。(単に私がそういう人間なのかもしれませんね)

 

日本にいながら、世界中の料理を味わいたい。

いや、世界中の料理を味わえるのが日本であると心のどこかで思っているような気がするのです。

 

料理だけではありません。

立ち並ぶ超高層ビルを見て、西洋化を嘆く日本人はいません。

中国伝来の漢字を使うなと怒る人もいません。

すべて取り込んで自分のものにしてしまう日本。

 

今では逆に、典型的な日本家屋こそが「古民家カフェ」などと付加価値の対象になっています。

日本語は、変化しても日本語である

人が、成長していくにつれてどんどん変化していくように、日本語も変化しています。私は、私が素晴らしいと思う敬語をとどめるべく奮闘している(つもり)ですが、そんな私の思惑とは関係なく言葉は変化していきます。

 

現代の私たちにとって、古文が勉強しなければ読めないものであるように、この先も変わっていくのでしょう。

 

それでも、定食にはご飯があるように、何かしら要(かなめ)のようなものがあるはずです。

私には、それが敬語のように思えるのです。

 

それでは、また。