お迎えをやっていく~#気になる敬語

本日の敬語ブログは、ウクライナからの避難民を受け入れるとの林外務大臣の言葉からお届けします。

上に貼った記事には、以下の発言が林大臣のものとして記載されています。


「皆様のために最大限のお迎えをやっていくという趣旨のことを申し上げた。」


テレビのニュースでもアナウンサーは同じことを言っていましたが、残念ながら林大臣本人が発話している映像を見ることはできませんでした。
したがって、本当に林大臣の言葉なのかどうか私は知りません(日本の大臣の口から出た言葉ではないことを祈る)が、この言い方は気になります。

を入れ言葉

を入れ言葉とは、本来「を」を入れる必要のないところに入れてしまう言葉遣いのことです。「お知らせする」でいいのに「お知らせする」、「お調べする」でいいのに「お調べする」と言ってしまうというようなものです。

 

そこで、上に記載した林大臣のものとされる発言を見ていただくと、本来であれば「お迎えする」と言うべきところですが、が入っています。

正しい敬語を使って、言い換えてみましょう。


「皆様を誠心誠意お迎えする旨を申し上げた。」


いかがでしょうか。

正しい敬語は凛としてすっきりしているものです。

 

さて、これが、単なる言い間違いならよいのですが、もしこれが無意識であれ何かしらの気持ちがこもっていて、それが言葉に出てしまったとしたらどうでしょう。

 

ズレには意味が生じる

基本からのズレには意味が生じます。ズレは、その方向によって配慮になったり嫌味になったりと、特別な意味を持ちはじめます。

 

例えば、敬語は人にしか使えないのが基本ですが、息子を亡くした人が息子の名前を付けて可愛がっている犬に対して軽い敬語を使うなら、それは配慮ですよね。

 

一方で、敬語はその対象を立てるために使うのが基本であるのにもかかわらず、「あんな能無しが出世なさるんだねえ」と言えば大概の人は敬意ではなく嫌味を言っていると気づくでしょう。

「お迎え」を考える

では、本来であれば不要な「を」が入っているということから、どのような意味が生じるでしょうか。

まずは、基本の意味を押さえましょう。

そして、この基本の意味からずらしているとしたら、そこにはどういう意味が読み取れるでしょうか。

 

「お迎えする」と言えば、迎え入れるその対象を立てるのが基本の意味ですから、この場合は、ウクライナから来日する避難民を立てています

避難民を立てるはずの言葉を、どうずらしているのでしょう。

 

ここでは「お迎え」という名詞が使われています。
「お迎え」はどのようなときに使われるでしょうか。

※念のため補足すると、「お迎えする」は動詞です

①「お迎えに上がる」(cf.受け手尊敬という用法です
これは、迎えに行く対象を立てるときに使う敬語なので、今回には当てはまりません。

②「社長直々のお迎え」(cf.主体尊敬という用法です
実際にこのような使い方をすることはないでしょうが、用法としてはあるので考えてみましょう。
この場合、「迎える」という行為をしている主体を立てることになるわけですが、今回のケースで言えば林大臣本人を立てることになってしまいます。
よって
当てはまりません。

③「お迎えが来た」(←基本からずらした使い方)
この文章だけ読んで人がイメージするものは、大体2つに分かれるのではないでしょうか。
ひとつは、阿弥陀如来が迎えに来た、つまり死ぬという意味。
もうひとつは、保育園に親が迎えに来た、つまりこれでようやくお家に帰れるよということを保育者が子どもに伝えるとき。
これらを見ると分かる通り、阿弥陀如来や親を立てることが目的で「お」を付けているという理由だけではなく、ただ単に誰かが誰かを迎えに来たというだけではない特別なことなのだという強調が目的です。加えて言えば、親が会社に「お迎えがあって…」と言うときも、迎えに行く子どもを立てる目的でこのように言っているわけではありません。自分の意志に関わらず行かなければならないやんごとなきことなのだと強調しているわけです。これもまた、正しい敬語の使い方というよりは、ズレによって生じた意味の例です。 

それでは、今回はどのような意味が生じ、また強調されているのでしょうか。

読み取れる意味

発話者から見て、遠い事柄である

 

立てる対象の行為を名詞化することで、その対象と距離を取ることが敬意表現のひとつの在り方です。例えば「(お客さまの)ご判断」「(社長の)お考え」という敬語が該当します。

 

一方で「迎える(という動詞)」であればその主語は発話者(林大臣)を含む日本側の人間になるわけです。それを、あえて名詞化することによってそこに林大臣が含まれるのかどうかが曖昧になる(=遠くなる)ということです。

 

簡単に言えば、あまり自分事とは感じていないようだ、という印象になります。

もしくは、自分事にはしたくないと思っているのかもしれません。

 

本当にそうかどうかは分かりません。あくまでも言葉に現れたものをそのまま受け止めるとそうなるということです。

 


 実は、話はここで終わりません。

記事にはもう一つ、別の「を入れ言葉」がありました。

 

日本の大臣が、外国からの避難民を受け入れるにあたり、その避難民への敬意を持ち合わせていないのではないかという疑惑が高まってきて、なんだかこのブログを書きながら陰鬱な気分になってきました。このブログはあくまで敬語をテーマとしたブログにすぎませんが、多くのユダヤ人をナチスの手から救った杉原千畝ならこんな言い方はしまいと、つい思ってしまいます。

 

が、めげずに次週はそれを取り上げようと思います。

 

それでは、また。