2022年7月3日、山際経済再生担当大臣は青森県八戸市で行った街頭演説において、「野党の人からくる話はわれわれ政府は何一つ聞かない。生活をよくしようと思うなら、自民党、与党の政治家を議員にしなくてはいけない」と述べたそうです。
それに対し木原官房副長官は記者会見で「政府としては国民の声を丁寧に聞き、国民の生活をしっかり守っていくことを基本としている。与野党問わず耳を傾け、野党を無視するようなことはないと明確に申し上げておきたい」と述べ、明けた4日には松野官房長官が山際大臣に対し、発言を慎重に行うよう注意したとのニュースがありました。
注意されたのは「発言を慎重に行うよう」とのことですから、嘘を言ったわけではないのでしょう。おそらく山際大臣は、自分が見てきたことをそのまま言葉にしただけなのです。それを「慎重に発言」すると、木原副長官の言葉になるということです。
一見すると、一方は「何一つ聞かない」と言っていて、それを慎重に発言すると「丁寧に聞き」になるのはどういうことでしょうか。
言葉の意味は文脈で変わる
親:うちの子ったら、親の言うことを全然聞かないんですよ
※ここで使われている「聞く」は「言われたとおりにする」という意味
妻:ねぇあなた、人の話、聞いてるの?
夫:あ?う~ん、聞いてるよ……
※夫の使っている「聞く」は「音が耳に入ってきている」という意味
このように言葉一つとっても、文脈によってその意味するところは変わります。
そしてコミュニケーションを円滑にしようと思ったら、文脈に沿って話すことが重要です。
それでは、もう一度山際大臣と木原副長官の発言を比べ、どのような発言が軽率だったのかを考えると、山際大臣は以下のような意味で「聞く」を使っています。(つまり、これらを「しない」と言ったわけですが)
■山際大臣の「聞く」■
心情まで含めてその言わんとするところを理解し、参考にし、検討し、必要に応じて行政に反映させること
それに対して、木原副長官の「聞く」は下記の意味を表しています。
■木原副長官の「聞く」■
国民とその代表としての野党議員が言うことは細大漏らさず聞く(それ以上のことはしなくても)
では、日本国民は与党に対し、どのような「聞く」を期待値として持っているかと言えば、山際大臣の「聞く」でしょう。そうでなければ独裁政権になってしまいますから。
ここまでを読んで、何を言っているんだ、だって山際大臣は「何一つ聞かない」と言ったんだよ、と思われる人もいらっしゃるかもしれませんね。
そうです。山際大臣が言ったことは、言葉を換えれば「実質的には日本は自民党の独裁政権なんだから無駄なことはやめろ」と言ったのと同じです。
しかし、山際大臣とは少なくともコミュニケーションができる。「聞く」という言葉を、聞き手である国民が考える意味で使っているからです。話し手と聞き手が同じ言葉を使っているから、「あなたの言っていることはおかしいよ」と言えるわけです。
それに対して、木原副長官の「聞く」はコミュニケーションの拒絶です。
いったい何の話をしたいのかと思われるかもしれませんね。
建前は嘘とも誤魔化しとも違う
建前などというと、「きれいごと」のことでしょ、と思われているかもしれませんが、全く違います。その枠組みに沿った言葉のことを建前といいます。
例えば、働きたいといって応募して採用されたなら「働きたい」が建前であり「働きたくない」は本音ではあっても言ってはならないことです。そして、それは言葉だけではなく実際に働かなければなりません。
もし時間通りに出社することが業務上大切な職場に遅刻ばかりしてくる人がいたとして、上司から注意されるたびに謝罪の言葉を口にし、もう二度と遅刻しませんと誓う人がいたらどうでしょう。実は事情があって遅刻せざるを得ないなら、それを話してくれたほうが対策が立てられ、よほど現場は助かります。しかし、その対策のために、もしかしたら大好きなゲームをやめなければいけないかもしれません。もしかしたらその対策には、クビという選択肢が含まれているかもしれません。であれば、余計なことを言わずにひたすら謝罪し次からはしないと約束していたほうが、現状を長引かせることができるかもしれませんね。
この場合の謝罪と誓いを建前とは言いません。嘘、もしくは誤魔化しです。
違いは何でしょうか。敬意の方向です。
本音では働きたくないけれども、その枠組みに従って働くとき、大切にしているのは組織です。一方で、ゲームもやり続けたいしクビにもなりたくないからと、「ちゃんと来ます!誠心誠意働きます!」と連呼しながら遅刻し続けるときの敬意はどこを向いているでしょうか。
自分です。保身のために言っているのです。
婉曲表現は敬意表現とは限らない
別の点から説明しましょう。
敬語は婉曲表現であると言われます。
しかし、婉曲表現ならば敬意表現かというとそんなことはありません。山際大臣の言葉を慎重に(婉曲に)言った言葉が木原副長官の言葉であるとするならば、その敬意の向かう先はどこにあるのでしょうか。
言葉のうえでは国民と野党議員を立てているように見えます。しかし本当に立てているのは、与党である自民党です。先の遅刻し続ける社員と同様に保身のための言葉に過ぎません。
もちろん、自民党が与党であり続けることが自民党としての目標であるならば、自民党という組織の枠組みには沿った言葉であると言えるかもしれません。
しかし、民主主義国家における政党の目標は、それでよいのでしょうか。
本来の敬意表現とは、立てるべき相手については婉曲に表現し、自身についてはつまびらかにすることです。それは、謹んで批判を受け入れ、自らをより良く変え、それをもって周囲にも良い影響を与えようとする態度です。
一見きれいな言葉に惑わされず、敬意がどこを向いているのかを見極めるようにしたいものです。
それでは、また。