規範から逸脱するためにこそ規範が必要

私が行っている敬語講座で、「この言い方は合っていますか?」「正しい言い回しは何ですか?」と質問されることがあります。そんなとき、「敬語に間違いはありますが正解はありません」と説明することがよくあります。

 

たとえば自分の雇い主に向かって食事を促して言うときに「どうぞ頂いてください」は間違いです。しかし、それならば「どうぞ召し上がってください」が正解かといえばそうとも限りません。それが本当に発話者にとって伝えたい言葉だったのか、状況から見て言うべき内容だったのか、いろいろな要素から鑑みて適切な言葉であろうものをその人なりに手探りで見つけるのが言葉というものだからです。

 

これを記述主義と規範主義という二つの考え方から説明します。

記述主義

記述主義とは以下のような考え方を指します。



これは、以下のようなテーマを知るには必要な考え方です。

・この10年で日本語がどのように変化したか

・20代以下と60代以上でどのように言葉遣いが異なるか

・地域による言葉遣いの差

etc.

 

これは、教育ではなく研究というスタンスですので、私は取りません。

 

なんと言おうか、なんと書こうかと考えるときに、ネットで検索してよく使われているらしい言い回しを真似して使うこともあろうかとは思います。それでも、それが”良い”方法ではないことは、恐らく検索している本人も分かっていることではないでしょうか。

規範主義

規範主義とは、以下のような考え方を指します。



■規範を作るべき

今の敬語には、「見られる」などの受身形、「お待ちになる」などの付加形、「いらっしゃる」などの特定形があります。

しかし、受身形はその名のとおり「受身」を表すので、「課長が見られる」と言ったときに課長が誰かに見られたのか、課長が見たのかが分からず使いづらいのです。

 

それであれば、ら抜き言葉と呼ばれる「見れる」と可能表現として認めたほうが、敬語の自由度は上がります。

そういう意味では、私は敬語にも新しい規範を作ってもいいのではないかと考えています。

■規範を守るべき

前項のような一部を除き、敬語には既にルールがあります。したがって、もっぱら今ある規範を守るべきと考えます。


なぜならば、敬語はオリジナリティを競うものではなく、相手に誤解なく伝わることが目的だからです。

■規範から逸脱したものを正すべき

この点について、私はなぜ逸脱したのかが重要であると考えます。

なぜなら、規範に従うところに配慮はないからです。

 

商品を買ってくれた客に向かって「ありがとうございます。」とお礼を言うのはマニュアルに書かれていることかもしれませんが、ときにはお礼よりも待たせたことへのお詫びが必要なこともあります。先に客からお礼を言われた場合には「どういたしまして」と伝えるほうがよい場合もあるでしょう。どんな場合であっても「ありがとうございます。」しか言わないならば、それは感謝の気持ちを表す言葉では既になくなっています。

 

私が文法を大事にし、「敬語に間違いはあるが正解はない」と言うその心は、規範から逸脱するためにこそ規範が必要だということです。

 

それでは、また。