敬語が消えていく

海外に住む方から、メッセージを頂戴しました。

 

海外に住んではいても、毎日のように日本のニュースは見ていらして、

ただ、そのニュースを見ていても敬語の使い方が気になるのだそうです。

 

それは、容疑者、犯人、受刑者、加害者、被告など、社会的に良しとされない人々について話すときに、まるでお世話にでもなった人かのように丁寧な言葉遣いをすることであり、それらを見聞きすると不自然に思えて仕方がないとのこと。

また、リポーターやキャスターに限らず、インタビューを受ける一般人までもが同様の言葉遣いをしているのを見ると、日本語はどうなっているのかと不安になるとおっしゃいます。


このようにメッセージを頂戴できると、とても嬉しいものです。

まして、敬語の重要性を認識してくれる方なら尚更です。

では、このメッセージにお応えしてまいりましょう。

なぜ不自然に思うのか

もちろん国内にいても、なんとなく不自然に思う人はいるでしょう。

一方で気にならない人が多いからこそ(さらにはそのような話し方をこそ丁寧で良いと感じる人がいるからこそ)、このような話し方が浸透していくわけです。

 

特に、報道番組のリポーターやキャスターに対しては、普通は言葉遣いに慎重なはずという先入観があります。最初は「あれっ?」と疑問に思っても、「ここでも使ってる。」「また使ってる。」「これでいいんだっけかな。」「別におかしくないか。」「これが普通の言い方だよね。」と習うより慣れろとばかりに馴染んでしまいます。別の言い方をすれば”麻痺”してしまいます。

 

メッセージをくださった方は、出版社勤めや放送メディアのご経験がおありとのことなので、言葉に対する関心が高く、その影響で敬語の変化に敏感であり、昨今の敬語の使い方に不自然さを感じるという点ももちろんあるでしょう。加えて、なぜ不自然に感じ続けられるのかを想像するに、日本と距離があり、間違った日本語にどっぷりつかっているわけではないため、「あれっ?」という感覚を失わないからではないでしょうか。

ゆでガエルの譬えのように、少しずつの変化だと気づかないものが、日本の報道や日本語での会話から完全に離れる時間をもって日本の報道を見るからこそ客観視でき、変化に気付きやすいのだと推察します。以前はリポーターだけがおかしな敬語を使っていたが、今では誰もが同様の敬語の使い方をしているぞ、と。

不自然に感じる本質は何か

この方は、例として容疑者や犯人などの悪人に敬語を使う例を挙げていらっしゃいますが、これは敬語を使う目的を見失ってしまったとしか言いようのない本質的な間違え方です。

 

敬語はなんのために使うのか。

それは人間関係を表すためです。

「社会の全員がその人を犯罪者扱いしても私はその人を尊敬している」と主張したいなら敬語を使うべきです。しかしそうではないなら、敬語を使ってはいけないのです。

 

相手を卑下するような言葉を使ったり更には罵倒したりすることは人権を無視した失礼な態度ですが、敬語を使わないことは、その人を貶めることではありません。それなのにリポーターや一般人が、だれかれ構わず敬語を使う理由は、「私が人から失礼な人だと責められたくない」ことではないでしょうか。誰のことを話していようと、人から自分がどう見られるか以外は関係ないのではないかと思わざるを得ません。

 

もしそうなら、これは美化語と呼ばれ、敬語とは本来区別して使われるものです。

極言すれば、日本から(一見すると敬語が氾濫しているように見えながら、実は)敬語が消えているということを表しています。

 

この、消えゆく敬語を残したいと思いつつ、今日も私はブログを書き綴ります。

これは良いと思う記事があったら、どうぞ拡散をよろしくお願いいたします。

また、コメントもお待ちしております。

 

それでは、また。