日本語の特徴として、漢字と平仮名と片仮名とアルファベットが混在する文字表現や、オノマトペなどがありますが、なかでも敬語の素晴らしさに魅了されて、私は毎週このようなブログを書いています。
そんな私が、先日とある方から、「日本人は集団主義者だと思われているが、どうも個人主義らしい」という話を聞き、「敬語から見える日本人は個人主義ですよ」と答えたところ、その考えをもっと詳しく聞きたい、と言われたため、今回の記事を書きました。
ということで今回は、思想としての敬語、生き方としての敬語について書きますので、「敬語=文法」と思っている方にとってはちょっと飛躍した内容に感じられるかもしれません。よろしくお付き合いください。
集団主義と個人主義
まず、集団主義と個人主義というそれぞれの言葉を見ておきましょう。
一方は日本的経営の特質で、方や政治思想ということなので、対義語とまで言えるのかどうかよく分かりません。一般的なイメージとして分かりやすいキーワードを使うなら、「滅私奉公=集団主義」に対し、「迷惑にならなければ好きにしていい=個人主義」ということかと思います。
たしかに、一般的なイメージでいえば、「敬語=滅私奉公」かと思いますが、私が持っている敬語のイメージは「迷惑にならなければ好きにしていい」です。
迷惑にならなければ好きにしていい
まず敬語は主体的に使うものです。
主体的でない考え方とは「こんな家庭に生まれたくなかった」「働きたくないけど、仕方ない」「やれって言われたからやるけど、どうなっても知らない」というようなものを指します。
一方、主体的に考えるとは、「ほうほう、こういうところに自分はいるのか。じゃぁ、これからどうしようか」ということです。
次に、日本の敬語は相対敬語ですから、状況に応じて立てる相手は変わります。つまり、「あの方を立てないなんて考えられない!」と洗脳する言葉ではなく、逆に関係性を常に意識し、「今、この場では、あの方を立てるべきだからそうしよう」と判断します。本人の意思で立てることも立てないこともできるが立てることを選んで行動しているということです。
そして、「こういうところ」を把握して言葉で表すのが敬語です。内訳は以下のようなものです。
・何のために集まっているのか【目的】
・どのような人間関係になっているのか【組織構成】
・自分には何が求められているのか【役割分担】
細かく分ければもっとありそうですが、「こういうところ」が何を指すのかはご理解いただけると思います。つまり、「建前」です。
この建前にのっとって(=迷惑にならなければ=敬意を損なわなければ)好きにしていいのです。
たとえば、周りが疲弊しきるほどに働いている中で「残業とか聞いてないんで帰ります」は建前を無視した失礼な発言ですが、「作業を効率化することにより残業代を削減し、ひいては利益率向上につながるアイデアを思い付いたのですが、聞いていただくわけにはまいりませんか?」なら敬意ある提案になるかもしれません。
また、指示命令権があり自己決定権を持つ上司に対して、部下である自分が命令すれば、それは組織構成を崩す危険な行為ですが、「~するのはいかがでしょう。」「~してもよろしいでしょうか。」とお伺いを立てるなら、使えるやつという評価が得られるかもしれません。
正しい敬語が使えるとは、こういったこと全てを指しています。
主体的に生きる
スポーツなら、それぞれのルールがあります。明文化されており、世界中どこでも同じルールかもしれません。もしルールが全くないボクシングを行ったら、それはただの喧嘩です。
どんな言葉を話そうと、どんなに文化背景が違おうとも、同じサッカーという競技ができるのは、ルールが共有されているからです。このとき、サッカー選手を「集団主義者」と呼ぶ人がいるでしょうか。
一方、企業などの組織内コミュニケーションには明文化されたルールがありません。ですから、自分でそれを把握して敬語を使って(もしくは敬語を使わないという選択をして)、表現するのです。表現されれば他者と共有できますから、他者の把握している建前と異なるなら齟齬が明確になり、互いに修正することができます。(このとき、敬語が共通言語になっていなければ、齟齬も明確にはなりません。だから、文法が重要なのです。)もちろん、どうしてもこの建前を受け入れられないという場合は、離れることも自由です。
そうやって、その場その場の建前を共有してこそ、多様性を受け入れ生かすことができ、そこにいる全員の自己実現が可能になるのではないでしょうか。
変えられるものを変える勇気を、変えられないものを受け入れる冷静さを、そして両者を識別する知恵を与えたまえ
これは、アルコール依存症者の自助グループなどで唱えられる祈りですが、敬語は、この「知恵」だと思うのです。
ですから、今回書いたことは決して日本人固有の考え方ではないと思っています。ただ、その考え方を誰でも使えるように誘導し補助してくれるツールとしての敬語が日本にはあるということです。
これは、大変に恵まれたことではないでしょうか。
それでは、また。