敬語が目指すコミュニケーション~群盲が象を知る

先週の解答

先週の問題は、以下の二つの選択肢のうち、どちらがより「聞き手(読み手)尊重」に近いかというものでした。

 

A:だったら読まなきゃいいじゃないか。別にお前のために書いたんじゃないし。なんでわざわざ人が書いた文章にケチ付けてんだよ。ヒマ人かよ。

B:自分では熟考したつもりだったがそういう見方もできるか!あぁ気付かなかった。わざわざ教えてくれるなんて有り難い人だ。

 

答えはBです。

 

日記のような私文書ならば別ですが、誰でも読めるようにみずから公開している文章であれば、「聞き手(読み手)尊重」が求められます

 

この考え方が軽んじられ忘れ去られていることが、まるでSNSが友人同士での内輪のやりとりのように扱われ、本来であれば”陰”口と言われるべき感情的な悪態や悪口が堂々と公開されて、恥じるどころか言論の自由であるとばかりに開き直る原因になってはいないでしょうか。

『群盲象を撫でる』と『和を以て貴しとなす』

 

インドの寓話に、『群盲象を撫でる』というものがあります。

目の見えない人が象を撫でて、足を触った人は「柱のようだ」と言い、耳を触った人は「うちわのようだ」と言い、腹を触った人は「壁のようだ」などと言って意見が対立してしまうことです。

 

一方、日本には、『和を以て貴しとなす』という言葉があります。日本の義務教育で習う、聖徳太子が制定した十七条憲法の第一条です。

 

ここで「和」を、「意見の対立がなく、諍いがない状態」と捉えるなら、象について他人が何を言おうと耳を傾けず、また自分の意見を主張もしなければ、波風が立つことはありません。

 

しかしそれでは、象の正しい姿を知ることはできません。各自の思い込みの世界でバラバラに生きている状態です。これを、昔の人が理想とした状態であるとは思えません。そうではなく、各人の知識や意見を持ち寄って、より事実に近い象の姿を皆が知ることはできないでしょうか。それは、互いが忌憚なく自身の思うところを述べ、互いの話にも傾聴し合うこと。それが「相互尊重を忘れず建設的に話し合う」ということです。

 

そのためのコミュニケーションを敬語は教えてくれます。

群盲が和を保ちつつ象を知る

そのための最初の一歩が、自らを群盲の一人であると知り、謙虚になることです。そのときに、他人は目が見えていて、自分だけが見えないと考えることを謙虚と捉える人がいるかもしれませんが、そうではありません。

 

自分を含めて誰も全てを見通せる人はいません。例えば医者は医学には通じているかもしれませんが、患者である自分にどんな生活習慣があるかに精通しているわけではないでしょうし、自分がどんな治療を望んでいるかも正直に話さなければ伝わりません。だからこそ、互いに協力しなければならないと考えるのです。

 

自分はダメで他者は偉いとか、自分が優れていて他者が劣っているとか、そういう白黒の世界から離れるのが敬語の考え方です。相手が偉いから謙虚になるのではありません。まずは自身が不完全であることを認めることが謙虚であり、それを他者の前に表明するのが、「聞き手(読み手)尊重」です。

 

それでは、また。