少し大げさな題名を付けてしまいました。
敬語は敬意を払うときに使う言葉です。
「払う」というと何かをするような言葉ですが、実際には何かを「しない」ことのほうが重要です。そして、「待たれる」「お待ちになる」「なさる」のように主体(=〇〇するその人)を立てるときに使う敬語を私は主体尊重と呼んでおりますが、今回はその主体尊重を中心にそんなことを書いていきます。
敬語が必要なのは、人間関係が壊れやすいから
敬語が必要とされるのは、信頼関係がないか、あっても希薄なとき。また、相互尊重ができない、もしくは簡単に崩れてしまう関係にあるときです。
そして、たまたま出会っただけの人が顔を突き合わせて生きていくのがこの社会ですから、ほとんどの人間関係はこれに該当します。
そんな中、「です」「ます」に代表される聞き手尊重はよく使われますが、「お〇〇になる」「〇〇なさる」に代表される主体尊重はもっと使われてよい言葉だと思います。
主体尊重が示すのは「〇〇しない」こと
敬語の考え方は、言葉の刑法のようなものです。
「道徳は〇〇しなさい」と教えますが、刑法は「〇〇してはいけない」と教えます。いや、「いけない」と自由を制限するものとは少し違いますね。正確には「〇〇してはいけない」ではなく「〇〇したら、△△の罰」がありますよ、ということです。例えば、相手が憎いからといってこき下ろせば、相手から物理的に殴られるかもしれませんし、仲間外れにされるかもしれません。それはあなたの望む未来ですか?という問いかけを敬語はいつもしてくれるということです。
相手の為にと思って何か進言したつもりでも、「なんだよ、偉そうに!」と思われただけではどちらにも利益がありません。実際にその進言は相手の為になりますか?それは自分だけの偏った見方じゃありませんか?と立ち止まり振り返ってみるというのが敬語を使ってものを考える意義です。
褒めたりおだてたりすることと主体尊重は違う
対象を褒めたりおだてたりすることが主体尊重だと思われがちですが、それは違います。対象の主体性を損なわないことや、自尊心を傷つけないことが主体尊重の本質です。
とは言え、いついかなる場合も敬語を使って話し、何もしないことが善というわけではありませんし、実際そんな人はいません。相手も「自分のために言ってくれている」と理解してくれるという確信があるなら、それを止めるものではありませんし、そんな確信はなくても言わずにおれないから言ってしまって、それが結果的に良いほうに働いたということだってあるわけです。よしんば悪いほうへ働いたからといって、それは人生の失敗でもなければそれで人間としての価値が下がるわけでもありません。
それが自分で選んだ行為であり、その結果を堂々と受け入れられるなら、誰にとやかく言われる筋合いもありません。
ナッジとしての敬語
刑法なんて大きなことを言いましたが、敬語を取り締まる警察もなければ、明確な罰則もありません。先人の知恵である敬語は、流行りの言葉でいうならナッジ(=より良い行動を選択できるようそっと後押しする)です。
人間は、感情に駆られて言いたくもないことを口走っては後悔する生き物です。誰よりエゴが強く人の気持ちを考えない私のような人間にとって、敬語は理想的な自分への道筋を示すものなのです。
それでは、また。