主体尊重の考え方の身近な例

敬語が表す主要な考え方の一つを私は主体尊重と呼んでいます。それは褒めることやおだてることとは違い、対象の主体性を損なわないことや、自尊心を傷つけないことであると、先週、説明しました

これは、互いの距離に敏感な日本人の多くが普段から行っていることでもあります。

距離の近い関係に敬語は必要ない

相手のことを罵ることも含めて本音で話し合うのはとても近い関係です。一方で、互いにハグしたり殴り合うのもとても近い関係です。

憎しみ合う関係も愛し合う関係も、敬語から見れば、距離の近さという点では同じです。敬語は対象と距離を取るために使う言葉ですから、両方とも敬語の出番はありません。

 

憎しみも愛も、とても強く対象と結びつけますから、相手のことを四六時中考え、そのことで頭がいっぱいになってしまうかもしれません。それが愛ならよいのですが、かわいさ余って憎さ百倍というように、愛を得られないなら憎まれることであってもよいから相手を縛り付けたいと思う人もいます。

そんなときであっても、敬語を使って距離を取るなら、自分を支配する憎しみという感情やその対象となる人と心理的に距離を取ることができます。対象にされた人も同じで、「怖い」「嫌い」という感情でいっぱいになってしまっては対象と自分をより強く結びつけかねません。

距離を取って遠くから見てみれば、今まで見えなかったものが見え、行動の選択肢が増えることもあります。壁が立ちはだかっているように見えても離れて見れば何のことはなく、回り込めば向こう側に行けたり、はしご代わりに使えるものを見つけたりするようなものです。

距離を能動的に調節する

これを会社の人間関係でいうなら、上司とウマが合わないときに、自分が会社を辞めるかあいつを辞めさせることはできないか、ということしか考えられなくなっているような状況を想定してみてください。そんな状況でもあえて上司に敬語を使い、敬意をもって上司を見直すことで、もっと建設的な解決方法がみつかるかもしれません。

 

もちろんそれが愛だったとしても、親しき中に礼儀ありというように、この愛をもろいものだと捉え大切にしようと思うなら敬語が役に立つでしょう。おそらく仲の良い夫婦は、距離を詰めたり離れたりという調整を自然と行っているのではないでしょうか。

そのときに、相手に言えないようなことを思ってはいけないと抑えつけると人間は不自由になります。思想の自由は憲法でも保障されており、敬語はそれを奪うものではありません。ただ、その思いを表現するか表現しないか、表現するならどう表現するか、それを選択できるようにサポートしてくれるのが、夫婦であれば長年の経験です。

 

しかしビジネスでは、初めて会ったばかりの人とも適切な距離を保たなければいけません。そのとき、長年の経験の代わりになるものが敬語です。

文化の代わりに文法を共有する

夫婦なら、長年を共に過ごした経験から、「散歩に行こう」と誘ったら「喧嘩はやめよう」の合図とか、脱いだ服を散らかしてあることに文句を言わない代わりに、相手も料理が手抜きでも文句を言わないなど、互いにしか通用しない尊重の仕方があると思います。

 

しかし、そんな関係ばかりではありません。自然と文化が築かれるまでの長い時間を省くために先人が用意してくれたコミュニケーションツールが敬語です。敬語の文法を共有していれば、初めて会った人同士でも互いを傷つけることなく、協働することもできます。だからこそ職場のような場所で敬語が重宝されるのです。


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