「受け手尊重」の姿勢とは

敬語には機能があります。それは敬意を払う方向性を示すことです。

そしてその方向性は以下の3つです。

① 聞き手(読み手)

② 主体

③ 受け手

そしてそれぞれに、払う敬意の中身があります。


前回は、「受け手尊重」について「責任は自分にあるけれどそれを評価するのは自分ではないと思ってみる」ことと書きました。

 

ここでいう評価とは「お天道様が見ていてくださる」的な広い意味で使っており、単に褒められたり感謝されるだけでなく、試験に合格することや商売が繁盛することや病気が治ることなど、様々なことを指しています。人に臨むときも、同じように考え、それを言葉として表すものが「受け手尊重」ということです。

というのも、人間とは不思議なもので、欲しかった商品がちょうど自分の手前で売り切れてしまっただけで、世界から自分ただ一人が嫌われているような気がしてしまうものだからです。そんなふうに思ったことないというポジティブな人もいるかもしれませんが、そういう人でも、昔はそう思っていたはずです。


幼児的自己中心性から、受け手尊重へ

たとえばお父さんとお母さんが喧嘩していると、実際には子どもとはなんの関係もないのに「自分が悪い子だから」と考えてしまったりすることがあります。これが幼児期の自己中心性です。この自己中心性があるからこそ、泣けばおっぱいが与えられることでこの世界は安心できる場所であると認知し、自分を見て微笑んでくれる大人を見て自分はかけがえのない存在だという認識を持つことができます。これらが健全な自尊心の礎になるのです。

 

しかし、自分が困っていれば黙っていても誰かが手を差し伸べてくれ、自分が何をしようと誰もがほほえましく見守るなどということは永遠に続くことではありません。この世界と自身への信頼が確立できたら、次は世界と他者から自分を分ける過程が始まります。そこでは、他者が泣いているからといって自分が泣く必要はありません。もし二人が泣いていても、それは全く異なる原因によるものかもしれません。困っているときには「困っているので助けてください」と言わなければ他者には分からないし勝手に助けてはくれないので、思っているだけではなく自分から能動的に動き他者に働きかけることを学びます。そうやってやがては、両親の喧嘩を見てもそれは両親の問題であるとして、自分から切り離せるようになっていきます。これが、主体尊重のもとになります。そのうえで、では両親が仲良くするために自分に何かできることはないだろうかと考えられるようになれば、受け手尊重ができるようになったということです。

相手を自分に合わせようとせず、自分から相手に合わせる

受け手尊重は、単なるビジネスマナーではなく、なんなら人に対してだけ持つものでもありません。お天道様はじめ、自然現象など人にはどうにもできないことを受け入れ祈りながら生きてきたこの生き方を、人に対しても行うことを受け手尊重と命名しただけです。身体ばかり大人になっても、悪いことが続くと自暴自棄になったり逆恨みしたりするものですが、敬語が指し示す生き方は、思い通りにいかないことがあってもそれを乗り越えていく生き方です。それは、目の前に起きた事柄をありのまま受け入れ、そのうえで主体的に捉えなおし、能動的に工夫していくように、自分とかかわりのある人を尊重してありのまま受け入れ、では自分はどう働きかけたらいいだろうかと考えます。

 

敬語が、意味を持つ言葉であるということが伝わったでしょうか。

 

次回は、この受け手尊重と似て非なるものを補足説明しておきたいと思います。

それでは、また。