「お入口」は何故生まれたのか?

先週に引き続き、「お入口」をテーマに書いております。今週は、なぜこのように過剰敬語が増えていくのかを考察します。

敬意逓減の法則

敬語は過剰になっていくことが運命づけられている言葉です。

敬意を示すとは、普通とは違い特別であることを示すことですから、その言葉が普通になってしまったら、敬意を示すための別の言葉を生み出さなければなりません。

しかし一方で、それがファッションの流行のように毎年変わるものであっては困ります。そのトレンドをフォローし、競って最先端を目指し、これまでなかったような斬新なアイデアを生み出そうとする努力は敬語には必要ありません。それよりも、青信号になったら渡り、車は右側を走るというように、誰もが共通認識をもって安心してコミュニケーションするために必要なものです。

 

したがって、長い目で見れば変わっていくものではありますが、どうしても困るものだけが改定されていくけれども基本は変わらない、そんなものかと思います。

それなのになぜ、「お入口」のような過剰敬語が増殖するのでしょうか。

「お出口」と「お入口」

閉館時間間際のデパートで「お出口はあちらでございます」などと誘導されたことはないでしょうか。それは気になったでしょうか。

 

以下は私の勝手な推論です。


店員がお客さまに面と向かって話すとき「出口」ということがはばかられ「お出口」と言いはじめた。一人が言うと、周りも自分の敬意が低いと思われるわけにはいかないので真似はじめた。「出口」のことを口にするときには「お出口」という言葉が無意識に出るようになったら、反対語の「入口」にも「お」を付けていないのはおかしいと考えるようになった。
その頃には客側も「お出口」に耳が慣れ、「入口に”お”を付けないのは何事ぞ」とクレームが入るようにもなり、各社が我も我もと「お入口」を掲示しはじめた。


上記は私の想像で、なんら調査したものではありませんが、恐らくは「お出口」が先にできて、後から「お入口」ができたのではないかと思うのです。
それは、客に対して尋ねられたり誘導したりするなら、入口より出口のほうが圧倒的に多いだろうからです。

ルールを知ること、自分を信じること

「お」の最も基本的な機能は、その単語を特別扱いすることです。英語でいえばダブルクォーテーションのような役割です。

一方、美化語は人によって文化・風習によって、使い方が大きく異なります。だからこそ、人を見て真似ていたら”何でもあり”になってしまいます。

それは、特別扱いするという機能をかえって損ねてはいないでしょうか。

 

先に、敬語を交通ルールになぞらえたので、もう一度なぞらえてみましょう。

赤信号で横断歩道を渡ったら車が止まったからといって、赤信号を平気で渡る人が増えたらどうでしょうか。車が止まらなければ人をはねてしまうんだから止まるべきだと信号を無視する歩行者から声高に言われたら、なんだか違和感がないでしょうか。

 

自動車の運転には教習もテストもありますが、歩行にはそれらがありません。だからこそ、自らルールを知ろうとする努力が必要ですし、それを単なる知識で終わらせず内面化していかなければなりません。それは、自分のことだけでなく運転する側のことも自分の内面に取り込んでいくことです。

そして、危ない運転をする人がいても、迷惑な歩行者がいても、ルールに従います。周りに流されることと他人から学ぶことは違います。それは、そのルールを内面化した自分に従い、人に左右されないことでもあります。

 

それでは、また。