実は以前、トイレ掃除を仕事にしていた人から、唖然とするような汚れを掃除しなければならないという話を聞いたことがあります。ひどいときは、トイレの蓋の上に大便がされていたこともあったと。
嫌がらせとしか思えないような行為です。
それでも、店が強く言えば客はクレームを言い、更にはSNSで拡散されるかもしません。そう思うとなんとかしてクレームは避けたい。でも汚されても汚されても我慢して掃除し続けられるほど人間は強くもない。
そこへ、クレームにもならず、トイレも汚されずに済む言い回しがあるとしたなら、使いたくはならないでしょうか。
敬意とは、目上に払うとばかりは限りません。目下であればどれほど見下げてもよく何をしても構わないわけではありません。
商売が客なくしては成り立たないように、一人の日常生活はいろんな人の仕事によって支えられています。客も店も、互いに感謝し合わなければならない関係のはずです。
相手は自分に敬意を払ってくれているでしょうか。自分を守るためには、他者から適切な敬意が向けられているか気を配りましょう。もし自分に敬意が向けられていないならその原因はこちら側にあったりはしないだろうかと振り返りましょう。そして、自分から他者に敬意を払いましょう。他者を切り離し相手のことを考えないなら労力など要りません。でもそれで良い社会が成り立つでしょうか。
一方で相互尊重によって支えられた人間関係は、双方の努力によってしか成り立ちません。だったら、相手が自分の心を解きほぐしてくれるほど敬意で満たしてくれるのを待ちますか?それとも自ら相手に敬意を払いますか?
両方とも真実です。人から適切な敬意を受けたことのない人が、人に適切な敬意を払うことは難しく、自分は何の努力も労力もせずともどんな人にも自然に敬意が湧いてくるというようなこともまた、あり得そうにはありません。そんな相反する中でバランスを取りながら生きていくのが人生です。
正解はありません。
ただ、敬語は、そんな自分を振り返るための小さな手鏡です。
どうぞ皆さまの家のトイレも大掃除をして、新年をお迎えください。
今年一年ありがとうございました
さて、年内の記事はこれで最後です。
皆さんにとって今年はどんな年でしたか。
来年は今年より少しでも良い年になりますように。私にも、あなたにも、世界中のすべての人にも。
それでは、また。