『犯罪心理学者は見た 危ない子育て』~④行為者ー観察者バイアス

1月26日のブログでは、『犯罪心理学者は見た 危ない子育て(SB新書 出口保行著)』の読書感想文にて、4つの認知バイアスを紹介しました。

本書38ページより再掲します。


確証バイアス

 すでに持っている思い込みや偏った考え方に合致する情報を無意識に集め、それ以外を無視する傾向のこと

 

正常性バイアス

 異常な事態に遭遇したとき、「たいしたことじゃない」と心を落ち着かせる働き

 

透明性の錯覚

 実際以上に自分の思考や感情が相手に伝わっているという思い込み

 

行為者ー観察者バイアス

 他人の行動はその人の内的な特性に要因があり、自分の行動は環境など外的な状況に要因があると考える傾向のこと


本書によると、これらの思い込みを手放すことは、子育てに限らずラクになったり、この先余計な苦しみを抱え込まずに済んだりするそうです。そこで、本書で紹介されていた4つの認知バイアスを一つずつ、どのように敬語に該当するのか説明していきたいと思います。

今回は、最後の行為者ー観察者バイアスです。

行為者ー観察者バイアスと受け手尊重

子どもは「太郎ちゃんがバカって言ったからぶった!」と自分が人に暴力を振るった原因を他者のせいにします。仮に、ぶった子どもを花子ちゃんとしましょう。

これを、「花子は言葉ではあるが傷つけられ、相手の子どもをぶつという行為に出ざるを得なかった(太郎がバカと言わなければ花子はぶたなかった=花子は悪くない)」と考えるのが主体尊重であり、「太郎が花子に向かってバカと言うことで、花子に太郎を殴らせた(花子がぶった責任は太郎にある=太郎が悪い)」と考えるのが受け手尊重です。

 

ここでは、ぶつ側を主体と見て主体尊重と受け手尊重を説明しましたが、バカと言った太郎を主体と見ることもできますね。その場合、見方は逆転します。

「太郎は花子の何らかの行為によって、バカと言うという行為に出ざるを得なかった(花子の何かしらの行為がなければ、太郎はバカと言わなかった=太郎は悪くない)」と考えるのが主体尊重であり、「花子は太郎をしてバカと言わせた(太郎がバカと言った責任は花子にある=花子が悪い)」と考えるのが受け手尊重です。

 

子どもの例で書きましたが、他罰的で自分を被害者と捉えるのが幼児的なら、自罰的で自分を加害者だと捉えるのが大人かといえば、それもおかしいですよね。ここでいう「ぶたせてしまった」「バカと言わせてしまった」というのは、その状況に責任を持ち主体的に受け止めるということです。「自分が悪かった、自分はダメな人間だ」が自罰的だとすれば、敬語では「自分が悪かった、どこをどう変えれば太郎ちゃんにそんなことを言わせずに済んだろうか」「自分が悪かった、どこをどう変えれば花子ちゃんに暴力を振るわせずに済んだろうか」と考えるということです。

 

これを親の例で考えてみましょう。

例えば子どもが万引きをしたときに、「最近、仕事が忙しく構ってあげられなかったから寂しい思いをしていたんじゃないだろうか」「こないだ財布から小銭がなくなっていたとき、まぁいいやと思って流してしまった。きちんと確認しなくてはいけなかったのに……」と自らを反省してくれる親なら子どもが立ち直るきっかけになるかもしれません。しかし「これまで育ててやった恩を仇で返すようなことをして!お前のような子を持って恥ずかしい!」と責められたら子どもはどうなるでしょうか。

「私の子ども」という言葉は愛情表現かもしれませんが、別人格である以上、一定の敬意は必要です。いえ、未熟な子どもだからこそ、敬意を払われることで健全な自己肯定感をもち、親から独立した人格として自分の人生に責任を持てるようになっていきます。

 

これは子育てばかりではありません。上司のせいにし、部下のせいにし、客のせいにし、配偶者のせい、親のせい、社会のせいにする人生は、どう想像しても、楽しくなさそうです。

また、自分の行動だけでなく、自分の身内や好きな人にもこのバイアスは働くことが多いように思います。例えば同じように汚職をしても、自分が支持する政党なら「日本のため、政治活動のためにやむなくやった」と解釈し、自分が反対する政党なら「遵法精神に欠けた人間に政治を任せるわけにはいかない」と考えるようなものです。

敬語は、このように主体と受け手双方の見方を自由に入れ替えることで、自分の感情や無意識のバイアスから自由になった視点でものを見るためのツールでもあります。

 

それでは、また。