『ねずみの嫁入り』が表す敬語の世界観

『ねずみの嫁入り』という昔話をご存じですか。
知っているという人が多いと思いますが、忘れてしまったという人も多いかもしれませんね。

『ねずみの嫁入り』のあらすじ

娘のために最高の婿を探す父母ねずみが、もっとも偉いであろう太陽のところへ行って娘を嫁にしてもらえないかとお願いに行きました。
太陽は、私なんかより雲のほうが偉い。だって私を隠してしまうんだからと言って断ります。
そこで父母ねずみは雲のところへ行きますが、風のほうが偉いと。風のところへ行けば、壁のほうが偉いと。壁は、ねずみのほうが偉い、だって壁に穴を開けて通ってしまうんだからと言って断ります。


それを聞いた父母ねずみは納得し、娘に相応しいねずみを婿に迎えることができたのでした。

「俺こそが一番偉い」と言っていたら

太陽は「お天道様」と呼ばれ、世界でも太陽神としてあがめられています。
その太陽が、「そうだ!俺こそが一番偉いのだ!最下層のお前らネズミなど嫁にもらえるか!!」と言って父母ねずみを追い払っていたらどうなっていたでしょうか。

父母ねずみはずっと太陽やねずみに生まれた己の運命を恨んで生きていくことになったかもしれません。

失礼だと怒っていたら

父母ねずみは、偉いかどうかだけで他者を判断しています。娘との相性も、生活スタイルもお構いなしで、偉い人と結婚すれば偉い人になれてそれが幸せだと信じています。

 

それでは太陽は、娘を幸せにするための単なる道具にすぎません。

そこで太陽が人を馬鹿にするのもいい加減にしろ!と追い返していても、恐らく父母ねずみには意味が分からなかったでしょう。

「偉い」の意味を変えた

偉いと思われていた太陽らが、お門違いな父母ねずみの申し出を非難することもなく、「私なんか偉くないんですよ」と伝えることで、父母ねずみはプライドを傷つけられることなく、一般的なヒエラルキーから離れ、個人的な価値に気付くことができました。

俺は社長だから誰よりも偉い。
俺は金持ちだから誰よりも偉い。

社会には、実際にそう思っている人もいるかもしれません。
太陽に出会う前の父母ねずみなら、こういう人たちにこそすり寄っていったことでしょう。そのとき娘は、親の価値観の犠牲になっていたかもしれません。

相互尊重こそ敬語の世界観

社長は、社長として社員から認められてこそ、社長です。
会社から離れれば、(例えば赤ちゃんの目から見たら)社長なんて関係ありません。

ある枠組みでの位置づけは、別の枠組みから見れば変わるかりそめにすぎない。
誰にもできることとできないことがあり、それぞれが違う。だから、自分も大事、他者も大事。これは相互尊重ではないでしょうか。

私には、この昔話は敬語の世界観を表す物語であるように思われます。

それでは、また。