過ちを繰り返さない『日本語が世界を平和にするこれだけの理由』①

この本の著者は金谷武洋。カナダで25年日本語を教え続けた先生です。

私はよく、敬語を使うことで上下関係が明確になり主語を省くことができます、と説明していますが、著者によると、「日本語に主語はいらない(p.143)」のだそうです。

省くことができるというのは、本来必要ということですが、それは英文法を基本に考えるからそういう発想になるのであって、本来の日本語に主語は不要なのであり、主語がないと意味が通りづらいときなど、必要に応じて付けることができるというのです。

 

このように書くと、ゼロから100で考えたときの49か51かというような微妙な違いにこだわっているように感じられるかもしれませんが、そうではありません。「私」なのか「あなた」なのか、はたまた「彼」「彼女」なのか、それも単数なのか複数なのかまで含めて、常に「誰が」を意識している言語と、「誰が」よりも、何をするのか、それはどのようであるのかを共に味わう言語であるのかの違いであると言いたいのだと思います。

 

それを著者は以下のようにまとめています


英語は「(誰かが何かを)する言葉」、日本語は「(何らかの状況で)ある言葉」だ 

(p.19 太字著者)


また結論として、以下のように述べています。


日本語は共感の言葉、英語は自己主張と対立の言葉

(p.24 同)


それを、以下のようにも説明しています。


お互いを見合うのではなく、心を通わせるために二人が同じ方向を見ようとすると、不思議なことが起きます。
相手と並ぶことで相手が視界から消えてしまい、見えなくなるのです。

(p.30)


西洋でカウンセリングが発達するのは、日本では友人関係やご近所さんで自然にやっていることを補わなければならないからなのかもしれません。

 

そういいながら、最近は日本語が共感の言葉である実感を感じられなくなってきました。対立をこそ良しとするような文化は、日本人の理想とする文化ではありません。

 

そんな著者が、「日本語は世界を救う」と題した章で取り上げているのが、広島の平和公園にある慰霊碑に刻まれた言葉です。


安らかに眠ってください 

過ちは

繰り返しませぬから


この主語が誰なのか、というのが、論争にもなったそうですが、これについて著者は以下のように述べています。


「誰の過ちか」が明らかにならない方がかえって日本語らしくていい(p.207)


碑文のことばを作った雑賀教授は、主語を「私たち全世界の人々」と捉えていたようです。

その捉え方自体は、人種も国籍も、敵も味方も関係なくどこかで誰もがつながっているという日本語の人間観に沿ったものですが、それでもしかし、それを石碑に刻んでしまうと、そうは考えない人をまるで断罪するような、人に強制するようなニュアンスを持ってしまいます。

 

そうではなく、日本語は、人を責めず、自身の責任を自身に問う、そういう言語であり、その粋が敬語であると考える私の立場からするならば、どの国のどんな人であれ、この碑の前に立った人が「あぁ、本当に繰り返してはいけない。繰り返さないようにしよう」と感じてくれたらいいと思います。

 

今回だけでは語りきれぬこの本の魅力を、次週も引き続きお伝えしたいと思います。

 

それでは、また。