以前、とある文章を読んで、「やっぱり、今認識されている敬語ってこういうことだよなぁ」と現実を突きつけられました。それが、作家である橘玲氏のこちらの文章です。
https://www.moneypost.jp/1050773/3/
いや、私に言わせれば、「ビジネス敬語」には、「部長は平社員よりも人間として尊い」なんて含意はないし、どちらかというとあっては困るんだけど……。
ということで今回の記事をお届けします。
ご高覧くださいませ。
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さて、権力を抑制し個人の自由を最大化することを目指すリベラリズムには、万人が平等であり、誰もが等しく人権を持っているという前提の共有があります。
一方で、敬語は「上下識別語」(※)としての機能を持ちます。
※敬語は「上下識別語」~『ほんとうの敬語』読書感想文(2020/11/13のブログ参照)
それならばやはり敬語は、人が不平等な状態を良しとする言葉なのでしょうか。
敬語が表す上下と、人間としての尊厳は関係ない
「上下」というと、「偉いvs.偉くない」という解釈になりがちです。
これが、職場における「役職上の偉さ(=責任範囲の広さや重さ=権限の大きさと強さ)」を意味しているならよいのですが、社長と部長と平社員とを比べたときに「人間としての尊さ」に差があると解釈するのは、私が広めたい敬語とは少し異なるかもしれません。※職場における上司に対する、自身よりも広い責任範囲や権限を認めない部下の言動については、リベラリズムであっても守るべき自由とは言わないでしょう
私が敬語を広めたい理由の一つは、立場や状況が変われば立てる対象が変わる敬語を使いこなすことによって、「役職上の偉さ」と「人間としての尊さ」とは関係ないし、加えて自分がその人を「尊い」と思えるかどうかなどということには影響されずに自分の言動をコントロールする力を身につけることができるようになるためです。
これを、「具体的操作期」と、「形式的操作期」という発達心理学の用語になぞらえて説明したのが、下記の記事でした。
発達心理学から敬語を考えてみる『こころの旅』~読書感想文(2021/7/9)
ただし、これが極端になれば、ーーー例えばこれから財産をだましとってやろうという自分の気持ちに全く影響を受けずに自分の言動をコントロールして完ぺきな敬意を表すとしたらーーー、これでは恐ろしいサイコパスが出来上がってしまいます。
目上に対して、人としての尊厳は平等でありながらも心からの敬意を表すならば、そこには目上個人に対する敬意ではなく、個を超えたもの、一人一人の個を繋ぐものが必要ではないでしょうか。
それについて、次週述べたいと思います。
それでは、また。