敬語を使うには、”自分を超えた”ではなく”人智を超えた”何かを想定し、その”何か”に敬意を払う

先週は、「すべての人は平等という考え方と敬語の考え方は反するのか」という点について、敬語が表す上下と人間としての尊厳は関係ないと書きました。

それならば、何に対して敬意を払うのでしょうか。
それは、人智を超えた”何か”です。
こんなことを書くと何を言い出したのかと思われてしまうかもしれませんね。

 

言わんとすることは、つまりこういうことです。

自分には分からないものがある、と考えると自分だけが愚かなような気がしてしまいます。ですので、人間は全知全能ではないのだと広く捉えましょう。かつ、その人間の向こう側に”何か”とのつながりを見て、その”何か”に敬意を払います。

お天道様から見れば人の善悪は小さい

独特な敬語体系が生まれた我が国独自の宗教は、山にも川にも雨にも風にも、なんならトイレにも神様がいるアニミズムであり、至るところに八百万の神々の存在を感じる神道です。

「お天道様」と言うとき、「乞食だから雨でずぶ濡れにしてやろう」とか「お殿様だからいい天気にしてあげなくちゃ」という意味が込められることはありません。それどころか、金持ちだろうが貧乏だろうが、障がいを持っていようが健康だろうが、見た目が美しかろうが醜かろうが、人間社会におけるその人の価値などは一切関係ないという意味で使われます。

そして、人が人を評価し裁くよりもっと大きな力として、「お天道様が見ている」のです。

人の都合では変わらない何かを想定する

神道に詳しい人から見たら、「お天道様」なんて神社では言わないのかもしれません。それでもきっと「お天道様」という感覚は、日本語を母語とする人でありさえすれば、初詣にすらいかないというような人であっても通じるだろうと思いますので、お付き合いくださいませ。(仏教徒なら仏性、クリスチャンなら神様を思い浮かべてくだされば構いません。無神論者で宗教は嫌いという方なら、どうぞ、まだ解明されていない科学や自然法則の不思議を思い浮かべてください)

 

「お天道様」から見た善悪は、人が判断する善悪と一致するとは限りません。

そもそも、人にとっての善悪とは目的があってこそはっきりします。戦国時代、この村に食べ物が無くても生き延びたいと思えば、隣村を襲うことは、この村の人にとっては善だったかもしれません。生活保護制度があり、人を襲わなくても生きることぐらいはできる現在なら、社会の平和を維持するための法律を守ることが善であり、コンビニ強盗をすることは悪です。

このように、人の目的はその時々によって変わり、それに連れて善悪も変わりますが、「お天道様」(※仏でも神でもその他でもOKです!)を持ち出すことで、人の都合では変わらない何かを想定することができます。

 

つまり、「自分のこともお天道様は見ているし、あいつのこともお天道様は見ている」という考えがあれば、ほんのわずかでも”お天道様の視点”で自分とあいつの関係を見ることができます。自分の視点でしか見られなかったものが、俯瞰できるのです。

 

あなたはどう考えますか?

それでは、また。