先週は、「人智を超えた何か、人の都合では変わらない何かを想定しましょう」などと怪しいことを書きました。
しかし、その想定によって、俯瞰した視点を手に入れることができます。
敬語は善悪をも超える
敬語は、自分の個人的な判断にはとらわれずに敬意を表するので、自分から見て相手が善人か悪人かは気にしません。
「いやいや、悪人と分かっていて敬語を使うなんて、ヤクザの子分くらいなものだろう。犯罪者に敬語を使うなんて、俺は絶対にしないね」なんて考える御仁もいらっしゃるかもしれませんね。
しかしどうでしょう、自分の子どもを今まさに殺さんとする強盗が目の前にいたら、親は、
「お金なら全部差し上げます。子どもだけは、子どもの命だけは、どうかお助けください」
と精一杯の敬語で懇願するのではないでしょうか。
対象を畏れ敬意を払う
勘違いしてほしくはないのですが、犯人に敬語を使い、自首したことを「犯人が自首なさいました」と表現するのが正しい敬語の使い方であると主張しているわけではありません。(ここは、聞き手と話し手の両方が属する社会の価値判断に従う場面ですから、敬語を使って敬意を表すのは間違いです。もし、自首した人が自分にとって大切な恩師であり、自首したことに対しても敬意を表したいならば、「恩師が自首なさいました」と言います)
「お天道様」から見たら人はすべてドングリの背比べなのだから、誰が偉いもない、誰に対してもすべからく敬語を使いましょうと言ってしまったら、そもそも上下識別語としての機能を失ってしまいます。
たとえば、自分の目から見て非常に意地悪で無能な上司であったとしても、また、たとえ元犯罪者であったとしても、自分がその人の部下という立場にいるならば上司は「指示をくださる」立場であり、自分はその上司から「指示をいただく」立場であることを忘れてはいけないということです。
屁理屈を言っているように思われますか。
でも神社に祀られているのは、優しい神様ばかりではありません。非業の死を遂げ、その恨みが大きな災いを引き起こすと考えられた人も、神様として祀られています。
この祀るという行為の根本は、対象を畏れ敬意を払うという点で、敬語と通じています。
そして、自分の視点以外に「お天道様」「人智を超えたもの」という視点を持つことで、人はメタ認知を手に入れ、自分や自分を取り巻く人間関係を客観的に俯瞰することができます。敬語を使うということが、この訓練の一つになるということです。
敬意ゼロの社会にならないために
単にあの人が嫌いというだけなら、多少の諍いはあっても戦争になることはありません。そういうレベルではなく、相手の人権をどれだけ踏みにじろうともなんの後悔もわかないような、敬意ゼロの状態が生まれるのは、①相手とのつながりが感じられない ②自分が善で相手が悪 のどちらかもしくは両方を満たしているときです。
人智を超えた何か、人の都合では変わらない何かを想定し、その”何か”と人とのつながりを意識することができれば、上記①②を避けることができます。そうすれば、どんな相手であったとしても、最低限の敬意を相手に向けることができるのです。
あなたはどう考えますか?
それでは、また。