先週は、敬語を使う相手に対し、好き嫌いどころか、相手が悪人にしか見えなくてもそれが上司であるならば敬語を使うと書きました。それは、人が考える善悪はその時々によって変化するものだけれども、敬語とはその場の人間関係における上下に基づいて使われるものだからです。
しかしこのように書くと、個人的な好き嫌いの感情や人それぞれの善悪の判断にはまるで価値がないと言われているように感じられるかもしれませんね。
でも、そういうことではありません。このように敬語を使うことで「メタ認知」を養う訓練にもなるのだと書きました。
更に、敬語自体は使わなくても、敬語を払う相手と同じように尊重しなければならない対象もいます。
そんなことについて、今回書いてみようと思います。
「ハレ vs. ケ」
民俗学によれば、日本には「ハレ」と「ケ」という分け方があります。ハレとは「非日常」、ケとは「日常」と説明されます。
※「ハレ」と「ケ」と「ケガレ」の3つに分ける考え方もありますが、ここでは2つに分けます。
祭りなど「ハレ」の日には、男性が女装をすることもあったそうで、日常のルールが無効になります。これは、人間のルールが無効になるということだと思うのです。
ルールがなければいろんな人間が集まって生活していくことはできないのだけれど、ルールでガチガチになっても生きづらい。
たまにはルールを取っ払うことによって、ルールの重要性を再認識したり、ルールを見直すこともできるかもしれません。
そしてルールを取っ払ったときに無法地帯にならないのは、「ハレ」が神の居る場だからではないでしょうか。そして、その神(でも「お天道様」でもいいのですが)とは、人智を超えた存在であるわけです。
「分かる」と「分からない」で考える
つまりこれを、敬語の使用に当てはめるなら、「分かる」ものが日常、「分からない」ものが非日常です。「分かる」ものはそんなに尊重しませんが、「分からない」ものは細心の注意を払って尊重します。
例えば、気心の知れた親友に敬語は使いません。見ず知らずの他人には敬語を使います。(初対面の相手が善人か悪人かなんて、分からなくても敬語は使いますよね)
これを職場で説明するなら、上司がそのような指示をするのは上司が無能だからに決まっていると信じて疑わない部下なら、敬語を使うことに抵抗を感じるかもしれません。
上司がそのような指示をするのは、自分の知らない何かがあるのかもしれないと考える部下は、気持ちと言葉が一致した敬語が使えるでしょう。
他方、同じく部下に敬語を使わない上司がいたとして、部下が何をやっているのか、何を感じ考えているかを把握しコントロールしていると思いこんでいる上司と、部下といえども私には分からない自分なりのやり方や部下だからこそ知っている事柄があるだろうと考える上司では、同じく敬語を使わないにしても、部下を尊重する態度に違いがありはしないでしょうか。
このように、自分が見たものだけで判断せず、より大きなものを感じ取ることが敬意を込めて敬語を使うために必要だと思います。
あなたはどう考えますか?
それでは、また。