例えば人の悪口を言って笑っているとき、それはちょっとした息抜きになっているかもしれない。悪口とはいっても別に「死ね」とか言っているわけじゃないし、そもそも、「あいつさぁ」で通じる人としか話さないから、別に誰の話とも明言していない。
そんなことは、学校でも会社でもよくある風景ではないでしょうか。
そこへ、「そういう話、よくないと思うな」と言う人が入ってきたらどうでしょう。
いや、別に逆でも構いません。
建設的な意見しか言わず、悪口も愚痴も聞いたことがないという集団の中に、悪口を平気で言い、不満や愚痴があとからあとから出てくる人が入ってきて、「なんか、きれいごとしか言わないんだね」と言う人が入ってきたらどうでしょう。
自分と違う相手を排除したいという思いは、自分の心の中をちょっとのぞきこんだだけで、溢れかえっています。
そして、自分と違うものを理解し、互いに分かり合うなんてことは、おいそれとできるものではありません。
だからこそ、まずは相手を傷つけないように尊重する。そのために、行為に出る前の言葉をコントロールする。その一つが、敬語。
マザー・テレサの有名な言葉があります。
そう、本当は、自分の「あんな奴いなくなればいい」「自分のほうが正しいのに」「こんなことが起きるなんておかしい」という思考を変えたいのです。でもそれは勝手に湧き出てくるものです。どうも人間は、清らかな泉のような思考ばかりが湧いてくるようにはできていないように思えます。
でも言葉なら、内面から外界へ”出す”ものなので、少なくとも思考よりは意識で制御することができます。
あなたはどう考えますか?
それでは、また。